物部守屋(もののべのもりや)と丁未の乱(ていびのらん)

物部守屋(もののべのもりや)は古墳時代の大連(おおむらじ/有力豪族)物部氏の頭領一族で、物部尾輿(もののべのおこし)の子である。

守屋(もりや)の物部氏の名乗りの物部は武器及び軍事物資の事で、物部氏は有力な軍事氏族である。


丁未の乱(ていびのらん)は、飛鳥時代に起きた蘇我氏と物部氏の宗教戦争の内乱と言われている。

しかしその一方で、信仰に名を借りた権力闘争の悪臭も香って来る。

物部氏は独自の物部神道を有し、日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立したとされるが、「守屋(もりや)個人の意思」とも言われる。

何故なら、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部氏そのものは廃仏派ではなかったという説もあるからだ。


五百七十二年(敏達天皇元年)、敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の即位に伴い、守屋(もりや)は大連(おおむらじ)に任じられる。

五百八十五年(敏達天皇十四年)、病になった大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。

敏達大王(びたつおおきみ)はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。

守屋(もりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ/中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神=仏教)を信奉した為に疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。

敏達大王(びたつおおきみ)は、この求めを受け入れ仏法を止めるよう詔した。

守屋(もりや)は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子(うまこ)や司馬達等(しばたっと)ら仏法信者を面罵した。

更に守屋(もりや)は、達等(たっと)の娘・善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら三人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。

しかし守屋(もりや)の行動に効果は無く、疫病は更に激しくなり、敏達大王(びたつおおきみ)も病に伏した。

馬子(うまこ)は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、敏達大王(びたつおおきみ)は馬子(うまこ)に限り許した。

敏達大王(びたつおおきみ)の許可を得た馬子(うまこ)は、守屋(もりや)に迫害された三尼を崇拝し、寺を営んだ。


ほどなくして、敏達大王(びたつおおきみ)は崩御し、殯宮(あがりのみや/もがり のみや)で葬儀が行われ、馬子(うまこ)は佩刀(はいとう/腰に刀を帯び)して誄言(しのびごと)を奉った。

守屋(もりや)は「猟箭(ししや/猟矢)がつきたった雀鳥のようだ」と笑い、守屋が身を震わせて誄言(しのびごと)を奉ると、馬子(うまこ)は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。


敏達大王(びたつおおきみ)の次帝には馬子(うまこ)の推す用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇・欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位する。

馬子(うまこ)に対抗する守屋(もりや)は、敏達大王(びたつおおきみ)の異母弟・穴穂部皇子(あなほべのみこ)と結んだ。


五百八十六年(用明天皇元年)穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、炊屋姫(しきやひめ/敏達大王の后妃)を犯そうと欲して殯宮(あがりのみや/もがり のみや)に押し入ろうとしたが、敏達前帝の寵臣・三輪逆(みわのさかう)に阻(はば)まれる。

その邪魔を怨んだ穴穂部皇子(あなほべのみこ)は守屋(もりや)に命じて三輪逆(みわのさかう)を殺させる。

馬子(うまこ)は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆くが、守屋(もりや)は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えたと言う。


五百八十七年(用明天皇二年四月二日)、用明大王(ようめいおおきみ)は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。

守屋(もりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ)は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対する。


馬子(うまこ)は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子(あなほべのみこ)に僧の豊国をつれて来させるが守屋(もりや)は睨みつけて大いに怒る。


史(書記)の押坂部毛屎(おしさかべのけくそ)が守屋(もりや)に、群臣たちが守屋(もりや)の帰路を断とうとしていると告げた。

守屋(もりや)は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国渋川郡跡部郷=現在の大阪府八尾市跡部)へ退き、味方を募った。

排仏派の中臣勝海(なかとみのかつみ)は、馬子派の皇子・彦人皇子(ひこひとのみこ)と竹田皇子(たけだのみこ)の像を作り呪詛した。


しかし、中臣勝海(なかとみのかつみ)は、やがて彦人皇子(ひこひとのみこ)の邸へ行き用明大王(ようめいおおきみ)への帰服を誓った。

自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子(ひこひとのみこ)と馬子(うまこ)の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている。

その彦人皇子邸から帰路、舍人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)が中臣勝海(なかとみのかつみ)を斬った。


守屋(もりや)は、物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子(うまこ)のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。


そうした混乱の中、五百八十七年(用明天皇二年四月九日)、病を得てわずか六日で用明大王(ようめいおおきみ)は崩御した。

守屋(もりや)は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位につけようと図ったが、六月七日、馬子(うまこ)は炊屋姫(しきやひめ)の詔を得て、穴穂部皇子(あなほべのみこ)の宮を包囲して誅殺し、翌日には宅部皇子(やかべのみこ)を誅した。


七月、馬子(うまこ)は群臣にはかり、守屋(もりや)を滅ぼすことを決める。

馬子(うまこ)は泊瀬部皇子(はつせべのみこ/後の崇峻大王)、竹田皇子(たけだのみこ)、厩戸皇子(うまやどのみこ)などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋(もりや)の館へ向かった。

守屋(もりや)は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。

その軍は強盛で、守屋(もりや)は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけ応戦した。

皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。

これを見た厩戸皇子(うまやどのみこ)は、仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。

馬子(うまこ)は、軍を立て直して進軍させた。


舍人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)が大木に登っている守屋(もりや)を射落として殺した。

寄せ手は攻めかかり、守屋(もりや)の子らを殺し、守屋(もりや)の軍は敗北して逃げ散った。


守屋(もりや)の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。

この戦いを「丁未の乱(ていびのらん)」と称する。


厩戸皇子(うまやどのみこ)は摂津国(現在の大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。

物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子(うまこ)のものになった。

馬子(うまこ)の妻が守屋(もりや)の妹であるので、物部氏の相続権があると主張したためである。

また、残りの半分は四天王寺へ寄進された。


戦国時代の近江の戦国大名・浅井氏は、守屋(もりや)の末裔を称している。


第一巻・第二話】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2016-12-03 19:30 | Trackback | Comments(0)  

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

日本史に於ける廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味である。

仏教寺院・仏像・経巻を破毀(はき)し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃する事を指す。

古代日本に於いては、日本の初期信仰は神道だった。

そこに仏教が伝来し、日本書紀の欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)・敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)・用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)の各天皇記を基にすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われた。

しかし日本の大和朝廷は、先進の中華文明を取り入れる為に「神仏習合」をもってこれを受け入れる方向にシフトした。

やがて、仏教が浸透していく事によってこのような動きは見られなくなった。


戦国時代及び安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した一部地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。

江戸時代前期に於いては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まる。

この影響を受けた池田光政や保科正之などの諸大名が、その領内に於いて仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。

なかでも、徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏は規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。

光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなった。

水戸藩主・徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。

天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。

幕末期に新政府を形成する事になった勤皇派の志士達は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。

言うまでも無いが、皇室は日本神道の最上位である天照大御神の祭司であり、その新体制を強化しうる動きの一環と言える。

また同時期に勃興した国学に於いても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。

中でも平田派(平田篤胤/ひらたあつたね・復古神道)は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与する事になった。

この経緯を経て、大政奉還後に成立した新政府によって「神仏習合を廃して神仏分離を押し進める廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」が明治維新後に発生した。

千八百六十八年四月十五日(慶応四年三月十三日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、及び千八百七十年二月三日(明治三年一月三日)に出された詔書「大教宣布」などの神仏習合の廃止政策が図られた。

「神仏分離令」や「大教宣布」は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかった。

しかし、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。

明治期の神仏分離政策後、仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈が全国的に生じた。


明治新政府の政策に拠り、皇統の神格化が図られて廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行うまでは、日本の宗教政策は大和朝廷以来江戸末期まで、信仰に基付く争いを避ける知恵を働かせて、基本的に永い期間「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」政策だった。

所が明治新政府は、文明開化(欧米文化の導入)で欧米列強と肩を並べるべく近代化を目指し、一方で強引な皇統の神格化を図り、天皇に拠る王政復古によって、神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。

同時に国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、国家と天皇への忠誠を広く庶民に啓蒙したのである。

ここで問題なのは、古来の神道に儒教・儒学(朱子学)は無かった事で、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは言いながら、庶民生活においては政府の意向で「神仏習合」から「神儒習合」に変わったのが現実である。

明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝純潔思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。

つまり、かつての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。

従って庶民の大半には、古くからの北斗妙見(明星)信仰陰陽修験犬神信仰真言大覚寺派の教えも、明治維新まで或いは戦前までは「共生主義」の一形態として民衆の間に根強く残っていたのは確かである。


神仏分離が廃仏毀釈に至った原因は地域・事例ごとに様々である。

廃仏思想を背景とするものの他、近世までの寺檀制度下に於ける寺院による管理・統制への神官・庶民の反感や、地方官が寺院財産の収公を狙っての事など、社会的・政治的理由も窺える。

政府は廃仏毀釈などの行為に対して「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ事」と、神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではないとの注意を改めて喚起した。

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神仏習合(しんぶつしゅうごう)


第六巻】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2016-12-02 13:57 | Trackback | Comments(0)  

和気清麻呂(わけのきよまろ)

和気清麻呂(わけのきよまろ)は備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身で、当初の氏姓は磐梨別公(いわなしわけのきみ)を名乗る。

のち藤野真人(ふじののまひと/輔治能)、和気宿禰(わけのすくね)、和気朝臣(わけのあそみ)に改めた。

清麻呂(きよまろ)は、磐梨別乎麻呂(いわなしわけおまろ)または平麻呂(たいらまろ)の子として生まれた奈良時代末期から平安時代初期の貴族である。


七百六十九年(神護景雲三年)七月頃、宇佐八幡宮神託事件が起こる。

宇佐の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、天皇が寵愛を与えていた「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位に就かせれば天下太平になる。」と称徳大王(しょうとくおおきみ/第四十八代)へ奏上する。

道鏡はこれを信じて、或るいは道鏡が習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自らが皇位に就く事を望む。

称徳大王(しょうとくおおきみ)は、神託の確認に側近の尼僧・和気広虫(わけのひろむし/法均尼)を召そうとする。

だが、虚弱な広虫(ひろむし/法均)では長旅は堪えられぬ為、弟の清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる。

清麻呂(きよまろ)は称徳大王(しょうとくおおきみ/天皇)の使者(勅使)として宇佐八幡宮に参宮し、宝物を奉り宣命の文を読もうとした。

その時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊く(きく/受け入れる)事を拒む。

清麻呂(きよまろ)は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願う。

すると、身の丈三丈、およそ九mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊(き)く事を拒む。

清麻呂(きよまろ)は与曽女(よそめ)とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳大王(しょうとくおおきみ)へ報告した。

清麻呂(きよまろ)の報告を聞いた称徳大王(しょうとくおおきみ)は怒り、清麻呂(きよまろ)を輔治能真人(ふじののまひと)姓を与え因幡員外介(いなばいんがいのすけ)に一旦左遷する。

その上、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪とした。


七百七十年(神護景雲四年)八月、称徳大王(しょうとくおおきみ)は崩御し、後ろ楯を無くした道鏡は失脚したため清麻呂(きよまろ)は光仁大王(こうにんおおきみ/第四十九代)により従五位下に復位した。

その後、和気清麻呂(わけのきよまろ)は播磨・豊前の国司(こくし/くにのつかさ)を歴任する。

この時、清麻呂(きよまろ)は自ら強く望んで、美作・備前両国の国造(くにのみやつこ)に任じられている。

その後清麻呂(きよまろ)は、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の下で実務官僚として重用されて高官となる。

清麻呂(きよまろ)は、山背国葛野郡宇太村を選んで平安遷都の建設に進言し、七百九十三年(延暦十二年)自ら造営大夫として尽力した。

もし、和気清麻呂(わけのきよまろ)が称徳大王(しょうとくおおきみ)の意向に応じて居れば、「この宇佐八幡宮神託事件で皇統が途切れていた。」として評価される人物である。


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第一巻】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2016-11-29 16:07 | Trackback | Comments(0)  

東大寺(とうだいじ)と大仏殿(だいぶつでん)

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。

東大寺(とうだいじ)は、金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(八世紀頃)聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が国力を尽くして建立した寺である。

「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当/住職)は僧正・良弁(ろうべん)である。


創建当初の奈良時代には、東大寺(とうだいじ)は中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西二つの七重塔を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、二度の兵火で多くの建物を焼失した。

創建当初からの大仏で、現存するのは台座(蓮華座)などの一部に創建当初の部分を残すのみである。

現在の大仏殿は江戸時代・元禄期の十八世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が三分の二に縮小されている。

「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院である。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が当時の日本の六十余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。


東大寺の記録である「東大寺要録」によれば、八世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身の寺院が建てられていた。

七百三十三年(天平五年)若草山麓に創建された金鐘寺(こんしょうじ)または金鍾寺(こんしゅじ)が東大寺の起源であるとされる。

正史「続日本紀」によれば、七百二十八年(神亀五年)、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、九人の僧を住まわせた事が知られ、これが金鐘寺(こんしょうじ)の前身と見られる。

記録によれば、八世紀半ばの金鐘寺(こんしょうじ)には、羂索堂、千手堂が存在した事がから知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。


七百四十一年(天平十三年)には国分寺建立の詔(みことのり)が発せられ、これを受けて翌七百四十二年(天平十四年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。

大仏の鋳造が始まったのは七百四十七年(天平十九年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられる様になったと思われる。

また、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは七百四十八年(天平二十年)が最初である。


聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が大仏造立の詔(みことのり)を発したのはそれより前の七百四十三年(天平十五年)である。

当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は短期間に遷都を繰り返したが、二年後の七百四十五年(天平十七年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われる事になった。

この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であった為、朝廷から弾圧されていた大乗仏教僧・行基(ぎょうき)を大僧正として迎え、協力を得た。


難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな/ボーディセーナ)を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは七百五十二年(天平勝宝四年)の事であった。

大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは七百五十八年(天平宝字二年)の事である。

東大寺では大仏創建に力のあった華厳宗僧・良弁(ろうべん)、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、大乗仏教僧・行基(ぎょうき)、インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。


大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させたという、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の思惑とは程遠い事実を突き付ける。

貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調(そようちょう)の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。


七百五十六年(天平勝宝八年五月二日)、孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代)に攘位して太上天皇(上皇)になっていた聖武太上天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が崩御する。

この崩御の年の七月に起こったのが、橘奈良麻呂(たちばなのならはしまろ)の乱である。

七月四日に逮捕された橘奈良麻呂(たちばなのならはしまろ)は、藤原永手(ふじわらのながて)の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。

ここで永手(ながて)は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父・橘諸兄(たちばなのもろえ)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ。」と反論した為、奈良麻呂(ならはしまろ)は返答に詰まったという。


奈良時代の東大寺(とうだいじ)の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並ぶ。

講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)がある。

南大門と中門の間の左右には高さ約七十メートル以上と推定される東西二基の七重塔が回廊に囲まれて建っていた。

東大寺(とうだいじ)は、七百四十五年(天平十七年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには四十年近い時間を要している。


奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後の事である。

その為、寺院では複数の宗派を兼学する事が普通であった。

東大寺(とうだいじ)の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。


平安時代には空海(くうかい/弘法大師)によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄(さいちょう/伝教大師)が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。


平安時代に入ると、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受ける。

東大寺(とうだいじ)は講堂と三面僧房が失火で、七重塔・西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こる。

そうした背景から、東大寺(とうだいじ)は多数の僧兵を抱え、隣接する興福寺(こうふくじ)などと度々強訴を行っている。

興福寺(こうふくじ)は、六百六十九年創建の法相宗大本山で、藤原氏の祖・ 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)とその子息・藤原不比等(ふじわらのふひと)ゆかりの氏寺である。


東大寺(とうだいじ)は、近隣の興福寺(こうふくじ)と共に千百八十一年一月十五日(治承四年十二月二十八日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。

この時、大勧進職(浄財の寄付を集める)に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時六十一歳の僧・俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)であった。

平安末期、重源(ちょうげん)の精力的な活動により、千百八十五年(文治元年)には後白河法皇(ごしらかわほうおう/第七十七代天皇)らの列席の下、大仏開眼法要が、そして千百九十年(建久元年)には上棟式が行われた。

千百九十五年(建久六年)には再建大仏殿が完成、初代鎌倉幕府将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)らの列席の下、落慶法要が営まれた。

その後、戦国時代初期の千五百六十七年十一月十日(永禄十年十月十日)、三好・松永の東大寺(とうだいじ)大仏殿の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺(とうだいじ)の主要堂塔はまたも焼失した。


千五百七十三年(天正元年九月)東大寺(とうだいじ)を戦乱に巻き込む事と乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。

大仏殿の仮堂が建てられたが、千六百十九年(慶長十五年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。

その後の大仏の修理は千六百九十一年(元禄四年)に完成する。

大仏殿の再建は、全国行脚の勧進で修理代を集めた僧・公慶(こうけい)の尽力や、江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)や母の桂昌院(けいしょういん)を初め多くの人々による寄進が行われた結果千七百九年(宝永六年)に完成した。

この三代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の十一間からおよそ三分の二の七間に縮小されている。

講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建される事はなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている。


千九百九十八年、東大寺(とうだいじ)と興福寺(こうふくじ)は古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録された。


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# by mmcjiyodan | 2016-10-06 18:29 | Trackback | Comments(0)  

行基(ぎょうき)・大僧正

行基(ぎょうき/ぎょうぎ)は奈良時代の日本の僧で、六百六十八年河内国大鳥郡、現在の大阪府堺市西区家原寺町)に生まれる。

行基(ぎょうき/ぎょうぎ)の生年については六百六十八年説と、異説の六百七十七年説が在る。

六百八十二年(天武天皇十一年)に十五歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相宗(ほっそうしゅう)などの教学を学び、集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。


僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、行基(ぎょうき)は禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。

また、行基(ぎょうき)は道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池十五窪、溝と堀九筋、架橋六所、困窮者の為の布施屋九所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。

朝廷が僧侶を国家機関と定めたのは、仏教を統治に利用する目的が在ったからである。

行基(ぎょうき)は、民衆を煽動する人物であると朝廷から疑われた事、また寺の外での活動が僧尼令に違反するとされた事から、七百十七年(養老元年四月二十三日)詔(みことのり)をもって糾弾されて弾圧を受ける。

だが、行基(ぎょうき)の指導により墾田開発や社会事業が進展した事、豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかった事、行基(ぎょうき)の活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断した。

この事から、七百三十一年(天平三年)弾圧を緩め、翌年河内国の狭山池の築造に行基(ぎょうき)の技術力や農民動員の力量を利用した。


行基(ぎょうき)は朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。

その後、行基(ぎょうき)は日本で最初の最高位・大僧正として聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘(しょうへい/礼を尽くして招く)された。

この大仏造立の功績により、行基(ぎょうき)は東大寺(とうだいじ)の「四聖(ししょう)」の一人に数えられている。

東大寺の「四聖(ししょう)」とは、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)、大乗仏教僧・行基(ぎょうき)、華厳宗僧・良弁(ろうべん)、を指す。


七百四年(大宝四年)に、行基(ぎょうき)は生家を家原寺(えばらじ)としてそこに居住した。

行基(ぎょうき)の師とされる道昭(どうしょう)は、入唐して玄奘(げんじょう/三蔵法師)の教えを受けた事で有名である。


七百三十六年(天平八年)に、インド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな/ボーディセーナ)がチャンパ王国(ベトナム)出身の僧・仏哲、唐の僧・道セン(どうせん)とともに来日した。

彼らは九州の大宰府に赴き、行基(ぎょうき)に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられている。

七百三十八年(天平十年)に、日本で最初の律令法典「大宝律令」の注釈書などに記されて朝廷より「行基大徳」の諡号(しごう)が授けられた。


民衆の為に活躍していた行基(ぎょうき)は七百四十年(天平十二年)から大仏建立に協力する。

この為、民衆の為活動した行基(ぎょうき)が「朝廷側の僧侶になった」とする説・「行基転向論」がある。

だが、一般的には権力側が行基(ぎょうき)の民衆に対する影響力を利用したのであり、行基(ぎょうき)が権力者の側についたのではないと考えられている。

七百四十一年(天平十三年)三月に聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が恭仁京(くにきょう)郊外の泉橋院で行基(ぎょうき)と会見し、七百四十三年(天平十五年)東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。

勧進の効果は大きく、続日本紀に依ると七百四十五年(天平十七年)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた。

行基(ぎょうき)の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代に於いて具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみと言われている。

その為、それぞれに対して、同時代の中国で席捲していた三階教教団の活動と唐朝の弾圧との関連や影響関係が指摘されている。


行基(ぎょうき)は日本全国を歩き回り、橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったとされ、全国に行基(ぎょうき)が開基したとされる寺院なども多く存在する。

三世一身法が施行されると灌漑事業などをはじめ、前述の東大寺大仏造立にも関わっている。

行基(ぎょうき)はまた、朝廷より菩薩の諡号(しごう)を授けられ「行基菩薩」と言われる。

その時代から行基(ぎょうき)は「文殊菩薩の化身」とも言われている。

なお、行基(ぎょうき)が迎えたインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)は七百五十二年、聖武太上天皇(七比約四十九年に退位し上皇・太上天皇)の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。


この他、行基(ぎょうき)は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされる。

大仏造営中の七百四十九年(天平二十一年)、行基(ぎょうき)は喜光寺(菅原寺)で八十一歳で入滅し、生駒市の往生院で火葬後竹林寺に遺骨が奉納された。

また、喜光寺(菅原寺)から往生院までの道則を行基(ぎょうき)の弟子が彼の輿(こし)をかついで運搬した事から、往生院周辺の墓地地帯は別名、輿山(こしやま)とも呼ばれている。


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# by mmcjiyodan | 2016-10-05 19:41 | Trackback(1) | Comments(0)