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枢軸国(すうじくこく)(一)

枢軸国(すうじくこく)とは、第二次世界大戦時に連合国と戦った諸国を指す言葉である。

ドイツ、日本、イタリア、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイなどソビエトを脅威と捉えていた反共主義国家が多い。

また、連合国が承認していない国家としては、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア独立国、満洲国、中華民国南京政府などがある。

そして枢軸国(すうじくこく)は、ドイツのアドルフ・ヒトラー率いるナチ党政権がその中心を為していた。

ヒトラー率いるナチ党政権下のドイツと、ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世国王の元、ベニート・ムッソリーニ率いるファシズム体制下のイタリア王国はどちらも類似した権威主義的体制で、思想的に近いものがあった。

しかし両国の関係は当初必ずしも良好ではなく、千九百三十四年にヒトラーとムッソリーニの初会談が行われた時も特に会談の成果は生まれなかった。

第二次世界大戦に於ける枢軸国は連合国と戦闘した国々であるが、枢軸国全体で統合された戦争指導は最後まで行われなかった。

このためドイツの対ソ開戦や日本の対米開戦は事前に通知されておらず、交戦相手も統一されていないなど、枢軸国の足並みは揃わなかった。

その為、千九百三十九年に勃発したポーランド侵攻に参加した枢軸国は、ドイツとその影響下で独立したスロバキア共和国のみであった。


千九百四十年五月に行われたドイツによるフランス進攻が、枢軸軍電撃戦として成功し、フランスはドイツの占領下で親ドイツ政権が成立する。

この成功に依り、イタリアと、前年にイタリアの侵攻を受けて同君連合を形成していたアルバニア王国も枢軸国に加わり、連合国に宣戦布告した。

八月十六日に行われた第二次ウィーン裁定によって、ドイツはルーマニア王国への駐屯権を獲得し、ルーマニアを枢軸国の影響下においた。


千九百四十年九月には「日独伊三国条約(三国同盟)」が結ばれ、以降、「枢軸条約」と表記される。

ただしこの時点では、この条約に日本が加入する事は枢軸国として参戦する事ではなかった。

この年の十一月にはハンガリー王国、ルーマニアが「枢軸条約」に加入する。

千九百四十一年三月一日ドイツ軍はブルガリア王国に進駐して「枢軸条約」に参加させる。

同年三月二十五日、ユーゴスラビア王国も「枢軸条約」に参加したが、二日後の三月二十七日にはクーデターが発生している。

クーデター後のユーゴスラビア新政府はドイツとの協調関係を維持すると声明したが、ヒトラーは許さずユーゴスラビア侵攻に踏み切った。

戦後、ユーゴスラビアはハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、そして独立したクロアチア独立国とセルビア救国政府、モンテネグロ王国によって占領される。

同千九百四十一年六月二十二日、ヒトラーの号令で独ソ戦が始まった。

ハンガリー、ルーマニア、クロアチアも独ソ戦に参戦し、さらに「冬戦争」でソ連の侵略を受けていたフィンランドも継続戦争状態のまま七月十日に参戦した。

独ソ戦開始の際にヒトラーはフィンランドを同盟国と呼んだが、実際にはフィンランドはドイツと同盟を結んでおらず、あくまで共同参戦国(英語版)であるという主張を行っている。

しかしフィンランド領内にはドイツ軍が駐屯しており、同年十一月二十五日に防共協定に参加している。

フィンランドがソ連側からの講和交渉を拒絶した為、イギリスによる宣戦を受けている。

千九百四十年十一月二十一日、北アフリカの植民地を失ったフランス・ヴィシー政権(ドイツ占領下の傀儡政権)に業を煮やしたドイツはアントン作戦を敢行、フランス全土を占領した。


千九百四十一年十二月八日、日本はコタバル上陸及び真珠湾攻撃を行い、アメリカ合衆国とイギリスに宣戦布告した。

オランダ政府は同年十二月十日に日本政府に対して「日本がオランダと密接不可分の関係にある米英両国に対し戦端を開いたので、日蘭間に戦争状態が存在するに至った」と通告した。

同年十二月十一日ドイツは条約上の参戦義務は無かったがアメリカに宣戦布告し、他の条約参加国も追随する。

この時点で、日本はソ連との間に日ソ中立条約を結んでいた為、日本はソ連に宣戦することはなかった。

しかし、日中戦争で日本と交戦中であった中華民国は日本とドイツ、イタリアに対して正式に宣戦布告を行い、連合国に加入する。

この十二月十一日には日独伊単独不講和協定が結ばれ、枢軸国陣営が成立した。

また同日、日本とタイ王国の間で日泰攻守同盟条約が結ばれ、翌千九百四十二年一月八日、条約締結に反応したイギリス軍とアメリカ軍がタイに対して攻撃を行った。

この為、一月二十五日にタイ王国はアメリカ・イギリスに対して宣戦布告した。


枢軸国(すうじくこく)(二)】に続く。

第六巻】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2016-08-06 08:54 | Trackback | Comments(0)  

枢軸国(すうじくこく)(二)

枢軸国(すうじくこく)(一)】に戻る。

千九百四十二年六月二十六日からのスターリングラード攻防戦はドイツの敗北に終わり、枢軸国にとって戦局は悪化の一途をたどるようになった。

戦局利あらずと観たフィンランドはこの時期からアメリカを仲介としてソ連と休戦交渉を行っている。

千九百四十三年七月二十四日、イタリア王国でクーデターが発生し、ムッソリーニは逮捕・監禁されたがドイツによって救出された。

九月八日イタリア王国は連合国に降伏したが、九月二十三日にはドイツによってムッソリーニを首班とするイタリア社会共和国がイタリア北部に成立し、枢軸国として戦闘を続けた。

またアルバニアはドイツの占領下に置かれ、ドイツ主導による傀儡政権の統治下に置かれた。

千九百四十三年十月三日、ムッソリーニのイタリア社会共和国と別に存在したイタリア王国はドイツに宣戦布告した。


同千九百四十三年十月二十一日、日本の支援の下自由インド仮政府が成立する。

自由インド仮政府軍はインドの宗主国であるイギリスに対して戦闘を行った。

同十一月十六日、大東亜会議において大東亜共同宣言が宣言された。

この宣言は「大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ」とあるように、日本と同盟しアメリカ・イギリスと戦うという内容であった。

この際、日本は会議参加国に対して米英への宣戦布告を要求した。

ビルマはイギリス・アメリカに宣戦布告したものの、フィリピン第二共和国は宣戦を拒絶した。


同千九百四十三年の後半になると、欧州に於ける東部戦線は崩壊し始める。

八月二十四日、ルーマニアはクーデターによって連合国側につき、ドイツに対して宣戦布告を行った。

同九月九日にはブルガリアでもクーデターが発生し、連合国側について枢軸国に宣戦した。

その十日後の九月十九日、継続戦争を戦っていたフィンランドはソ連と休戦条約を結んだ。

その後フィンランドは駐留ドイツ軍とラップランド戦争と称される交戦を行う。

同十月十五日にはハンガリーも対ソ休戦を発表しようとしたが、ドイツ軍のクーデターによって親独派の矢十字党政権のハンガリー国が成立し、枢軸国側に留まった。

西部戦線でも八月二十六日にパリが連合軍によって奪回されるなど、ヴィシー政権とドイツのフランス支配は終焉した。


千九百四十五年三月、日本は支配下に置いていた仏領インドシナからベトナム帝国、ラオス王国、カンボジア王国を独立させ、傀儡政権を樹立する。

そんな中、ヨーロッパは完全に連合国側の手に落ち、欧州の枢軸国は次々と脱落・消滅していった。

同年四月二十五日にはイタリア社会共和国が降伏、五月八日にはドイツが降伏した。最後に残った日本も、広島・長崎への原爆投下の甚大な被爆被害を受け、八月十五日に降伏受け入れを表明し、九月二日には正式な降伏文書調印を行った。


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# by mmcjiyodan | 2016-08-06 08:51 | Trackback | Comments(0)  

戦前・戦中の言論弾圧

実は、日本軍の真珠湾攻撃と時を同じくして、千九百二十五年に制定・施行された「治安維持法」が全部改訂され、言論統制による戦時体制を確立させた歴史がある。


戦前・戦中の言論弾圧とは、戦前の日本に於ける左翼勢力・自由主義者・宗教団体に対する言論弾圧・粛清を治安当局(特別高等警察)が行った事件の事を指す。

この中で弾圧立法として大きな役割を果たしたのが、千九百二十五年制定・施行され、千九百四十一年に全部改訂された「治安維持法」である。

「治安維持法」は、幾度かの改正を経て本来の立法意図をすら逸脱し、広い意味での体制批判者を取り締まる法へと拡大解釈されて行った。

その「特別高等警察」のターケット(標的)にされたのが、非合法的左翼勢力(すなわち日本共産党・共産主義者)およびその関連団体(大衆運動組織)などである。

それに加え、合法的左翼勢力(すなわち一部の急進的社会民主主義者)および自由主義的知識人、体制内の非主流派・批判的グループや一部の宗教団体などの政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となって行った。

千九百四十五年(昭和二十年)の太平洋戦争敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫り来る「共産革命」の危機に対処する為、被占領下の日本政府は断固適用する方針を取り続けた。

しかし敗戦から凡(およ)そ三ヵ月後の十月初旬、GHQの政策・人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により治安維持法体制は一転して解体に向かった。


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# by mmcjiyodan | 2016-07-27 14:50 | Trackback | Comments(0)  

真珠湾攻撃(日米開戦)の(一)

真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)は、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾に在ったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃である。

真珠湾への雷撃攻撃は、日本時間千九百四十一年十二月八日未明、ハワイ時間十二月七日に実行された。

この攻撃を、「奇襲攻撃」と言えるかどうかで日米の認識には現在でも主張に異論がある。


千九百三十九年から千九百四十一年々頭に至る頃、日本政府及び日本海軍はABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)を実力で打破すべく検討を繰り返していた。

当初の日本海軍は、対米戦争の基本戦略として漸減邀撃(迎え撃ってしだいに減らせる)作戦を有していた。

これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて迎え撃ち、しだいに減らさせた上で日本近海に於いて艦隊決戦を行うというものであった。

その戦略が変ったのは、千九百三十九年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将が異なる構想を持っていたからである。

アメリカに長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本長官は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えていた。

為に山本長官は、遥かに若かった十一年前の千九百二十八年(昭和三年)の時点で、既にハワイ攻撃を提唱していた。


千九百四十一年一月十四日頃、連合艦隊司令長官・山本五十六大将から第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎中将 に「会いたい」と手紙が在った。

大西航空艦隊参謀長は、一月二十六日ないし二十七日頃、連合艦隊旗艦・長門(戦艦)を訪ね、山本長官からハワイ奇襲作戦の立案を依頼される。

山本長官は、日米開戦の已(やむ)むなきに至った場合、「わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ対米戦に勝ちを制する事はできない」と大西航空艦隊参謀長に切り出す。

その「余程思い切った戦法」の目標は、太平洋に配備された米国戦艦群である。

攻撃は雷撃隊による片道攻撃とし、開戦劈頭(へきとう/開戦冒頭)にハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し痛撃を与え、「当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す」と続けた。

山本長官は、第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもってこの目標を達成する為の作戦研究を大西航空艦隊参謀長に依頼したのだ。


鹿児島・鹿屋(かのや)司令部に戻った大西参謀長は、幕僚である前田孝成大佐に詳細を伏せて真珠湾での雷撃攻撃について相談する。

前田大佐からの回答は、真珠湾は水深が浅い為に技術的に「雷撃攻撃は不可能」と言うものだった。

大西参謀長は二月初旬、今度は第一航空戦隊参謀・源田実中佐を呼びつけ、二月中旬に訪れた源田参謀に大西参謀長は同様の質問をした。

源田参謀からは、「雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究があれば困難でも不可能ではない」と言う回答が在った。

大西参謀長は源田参謀に「作戦計画案を早急に作るように」と依頼する。

源田参謀は二週間ほどで計画案を仕上げて大西参謀長に提出、それに大西参謀長が手を加えて作案し、三月初旬頃、山本長官に提出した。

山本長官は、真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ期待する所期効果を得ないので空襲作戦は断念するつもりであった。

しかし大西参謀長、源田参謀案で「不可能ではない」と判断された為、戦艦に対して水平爆撃と雷撃を併用する案になった。


攻撃順序の主目的は戦艦・空母、副目的は航空基地・敵飛行機とした。

敵艦隊が西太平洋を進攻する機動能力を奪う為には、水上艦艇に集中して確実徹底を期すべきと考えた。

戦力を二分しては、敵艦隊と工廠、油槽等施設を攻撃していずれも不徹底に終わる事を懸念しての方針立案だった。

水上艦艇を徹底的に叩けば、大西洋艦隊を割いて太平洋艦隊を増強しても相当長期間その進攻能力を回復しえないと判断して居たのである。


第十一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎中将と第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介大佐は、ハワイ奇襲作戦に反対した。

大西中将と草鹿大佐の意見は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得の為に、アメリカの植民地のフィリピン方面に集中するべきとしていたのだ。

だが、山本長官の意見は頑(かたく)なだった。

大西と草鹿の両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだと言う積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べる。

さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからと言って、そう投機的だ、投機的だと言うなよ。君達の言う事も一理あるが、僕の言う事も良く研究してくれ」と話して説得した。

十月十九日、連合艦隊参謀・黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰(おっしゃ)っている」と軍令部次長・伊藤整一中将に伝える。

この山本長官の意向を伊藤中将から伝え聞いて驚いた軍令部総長・永野修身大将は作戦実施を認めた。


つまり真珠湾攻撃作戦は、直前に「宣戦布告をする予定」とは言え、勝つ為に何ヵ月も前から「先制攻撃」が計画されていた。

そしてこれがフィクション(架空の創作)ならば、血沸き肉躍る男のアクションドラマかも知れない。

しかしリアルな戦争であれば、手段を選ばない破壊や殺戮(さつりく)の非人道的な行為そのもので、これをワクワク楽しむ感性を持つ人は危険である。

男性の闘争本能を「自らの感性」と主張するに自己陶酔に、人間としての欠陥を理解すべきではないのか?


真珠湾攻撃(日米開戦)の(二)に続く。

詳しくは小論【真珠湾攻撃(日米開戦)】を参照下さい。


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# by mmcjiyodan | 2016-06-20 14:14 | Trackback | Comments(0)  

真珠湾攻撃(日米開戦)の(二)

真珠湾攻撃(日米開戦)の(一)に戻る。

第一航空戦隊参謀・源田中佐の真珠湾攻撃案は、出発基地を小笠原父島か北海道厚岸(あっけし)とし、空母を真珠湾二百海里まで近づけて往復攻撃を行う二案であった。

一つ目の父島案では、雷撃可能な時は艦攻は全力雷撃を行い、艦爆で共同攻撃する案である。

二つ目の厚岸(あっけし)案は、雷撃不可能な時には艦攻を降ろして全て艦爆にする案である。

戦闘機は制空と飛行機撃破に充当し、使用母艦は第一航空戦隊、第二航空戦隊の全力と第四航空戦隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を使う。

航路は機密保持の為に北方から進攻して急降下爆撃で攻撃し、主目標を空母、副目標を戦艦とした。

本来の軍事作戦では、水平爆撃は当時命中率が悪く大量の艦攻が必要になる為に計算に入れなかった。

これに対して大西参謀長は、戦艦には艦攻の水平爆撃を行う事、出発を単冠湾(択捉島)として作案した。

九月頃、大西参謀長から源田参謀が「これで行く様に」と厳命が手渡された。

手渡された厳命には、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載して補助艦艇に攻撃を加え、「戦艦に致命傷がなくても行動できなくする事」になっていた。


真珠湾航空奇襲の訓練は、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。

従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていた。

しかし真珠湾航空奇襲を目的とする第一航空艦隊の航空訓練は、機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた。

また、この作戦の為に空中指揮官・淵田美津雄中佐と雷撃専門家・村田重治少佐が指名されて一航艦に異動した。

この作戦では、海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とする為、空母の集中配備が採用された。


攻撃案は当初、真珠湾の北二百海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ三百海里圏外に脱出する案だった。

だが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田参謀から反対が在った。

それでフォード北二百三十海里で一次攻撃、南下して二百海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された。

技術的な課題は、水深十二mと言う浅瀬でどうやって魚雷攻撃を行うか、次に戦艦の装甲をどうやって貫通させるかの二点であった。

水深十二mと言う浅瀬に対しては、タラント空襲を参考に着水時の走行安定性を高めた愛甲魚雷を航空技術廠が改良し、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させて沈度を抑える事に成功した。

また、鴨池航空隊(鹿児島鴨池航空基地所属)による超低空飛行訓練により、最低六十mの水深が必要だったものを十m以下に引き下げる事に成功した。

事実、実際の攻撃では投下された魚雷四十本のうち、射点沈下が認められたのは一本のみの大成果で在った。

戦艦の装甲をどうやって貫通させるかに対しては、戦艦の装甲を貫徹する為に水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施された。

模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立製作所安来工場製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通する為の運動量の計測などが行われた。


作戦使用航空母艦は、当初第一、第二航空戦隊の四隻を胸算していた。

だが、九月末「瑞鶴」の就役で第五航空戦隊は「翔鶴」、「瑞鶴」の新鋭大型空母二隻となる。

連合艦隊ではハワイ空襲の成功を確実にする事、山本長官の抱く作戦思想に基づく作戦目的をより十分に達成する事が重要課題である。

その課題達成の為には、「搭乗員や器材の準備が間に合うなら五航戦も使用したい」と考えた。

山本長官は、かねがね日露戦争劈頭(へきとう/冒頭)の旅順港外の敵艦隊の夜襲失敗の一因は兵力不足によると述懐していた。

しかし、軍令部総長・永野修身大将は四隻案で考えていた。

千九百四十一年十月九日~十三日に連合艦隊司令部で研究会が行われる。

軍令部航空部員・三代辰吉中佐はこの研究会出席の為出張して来たが、研究会に間に合わず終了後来艦し、六隻使用は到底望みがたい旨を伝えて東京に帰った。


航空攻撃と併用して、五隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。

この計画は連合艦隊司令部が秘密裏に進めていた真珠湾攻撃とは別に浮上した独自のプランであった。

これは、司令部の他にも部隊側に開戦と同時に真珠湾を奇襲する発想が在った事を示している。

魚雷二本を艦首に装備した「甲標的(こうひょうてき/特殊 潜航艇)」は千九百四十年九月に正式採用され、三十四基の建造が命令された。

千九百四十一年一月中旬から訓練が開始され、八月二十日までに襲撃訓練が完了、搭乗員の技量も向上していった。

訓練により戦力化に目処が立つと伴に日米関係が益々悪化する。

そうした状況に、搭乗員から開戦時に「甲標的(こうひょうてき)を使って港湾奇襲を行うべきである」との意見が盛り上がった。

先任搭乗員の岩佐直治中尉から甲標的母艦千代田艦長の原田覚大佐へ真珠湾奇襲が具申された。

この時、たまたま訓練を視察していた軍令部の潜水艦主務部員・有泉龍之助中佐もこの構想に共鳴して協力を約束する。

九月初旬に、甲標的(特殊潜航艇)母艦・千代田の原田覚艦長と岩佐中尉が連合艦隊司令部を訪問して真珠湾潜入攻撃計画を説明したが搭乗員の生還が難しい事から却下された。

司令部を納得させる為、甲標的(特殊潜航艇)から電波を発信し潜水艦が方位を測定して水中信号で誘導を行う収容方法を考案し、再度司令部へ具申を行った。

だが、「搭乗員の収容に確実性がない」との山本長官の判断で再度却下された。

部隊では更に検討を行って甲標的の航続時間を延長する等の研究を行い、十月初旬に三度の具申を行った。

この具申の結果、更に収容法の研究を行うとの条件付きながら、終(つ)いに計画が採用された。

十月十一~十三日に長門で行われた図上演習には甲標的(特殊潜航艇)を搭載した潜水艦五隻による特別攻撃隊が使用された。

特別攻撃隊の甲標的(特殊潜航艇)五隻には、岩佐大尉ら十名の搭乗員が選抜される。

作戦に使う潜水艦として甲標的(特殊潜航艇)を後甲板に搭載可能な伊一六、伊一八、伊二〇、伊二二、伊二四が選ばれた。


千九百四十一年十一月一日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は十一月五日の昭和天皇の御前会議で承認された。

以降陸海軍は十二月八日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対英米蘭戦争の準備を本格化した。

十一月十三日、岩国航空基地で連合艦隊(南遣艦隊を除く)の最後の打ち合わせが行われた。

山本長官は「全軍将兵は本職と生死をともにせよ」と訓示するとともに、日米交渉が妥結した場合は出動部隊に直ちに帰投するよう命令した。

この「日米交渉の妥結時帰投命令」に二、三の指揮官が不服を唱えた。

だが、山本長官は「百年兵を養うは、ただ平和を護る為である。もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら、只今から出勤を禁ずる。即刻辞表を出せ」と厳しく言ったと伝えられる。


十一月十七日、山本長官は佐伯湾に在った空母赤城を訪れる。

機動部隊将兵を激励するとももに、「この作戦の成否は、その後のわがすべての作戦の運命を決する」とハワイ作戦の重要性を強調している。

十一月二十二日、南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は択捉島の単冠湾に集結。

出港直前、空母「赤城」に搭乗員達が集合し、南雲中将が米太平洋艦隊を攻撃する事を告げた。

赤城艦長・長谷川喜一大佐は、山本長官の「諸子十年養うは、一日これ用いんが為なり」という訓示を代読している。


艦隊航路の選定には、奇襲成立のため隠密行動が必要であった。

連合艦隊参謀の雀部利三郎(ささべりさぶろう)中佐が過去十年間に太平洋横断した船舶の航路と種類を調べる。

その結果十一月から十二月にかけては北緯四十度以北を航行した船舶が皆無である旨を発見し、困難な北方航路が採用された。

なお、当時第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介によれば、奇襲の一撃で初期の目的を達成できなかった時、もしくは敵に発見され奇襲に失敗した時には、強襲を行う事に定められていた。

ただしどこまで強襲を重ねるかについては状況次第であったと伝えられている。

十一月二十六日八時、旗艦「赤城」以下の南雲機動部隊はハワイへ向けて単冠湾(択捉島)を出港した。


十二月一日、昭和天皇の御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の三十分以上前に行うべき事が決定された。

勿論、「攻撃三十分以上前宣戦布告」は、相手に応戦準備をさせない奇襲をギリギリのアリバイとして主張できる「違法ではないが限りなく不適切」な戦法である。

十二月二日十七時三十分、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」の暗号電文が発信された。

ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で、当時の日本の最高峰ある。

一二〇八とは十二月八日の事で、「X日(エックス・ディ)を十二月八日(日本時間)と定める」の意の符丁であった。

ちなみに、戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」であった。

重責を背負った空母機動部隊・南雲中将は航海中、「えらい事を引き受けてしまった。断ればよかった。上手く行くかしら?」と草鹿大佐に語りかけたと言う。


真珠湾攻撃(日米開戦)の(三)に続く。

詳しくは小論【真珠湾攻撃(日米開戦)】を参照下さい。


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