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蘇我氏と蘇我稲目(そがのいなめ)

蘇我稲目(そがのいなめ)は、蘇我氏を最有力豪族に押し上げた人物である。

蘇我(宗賀、宗我)氏(そがのうじ)は、古墳時代から飛鳥時代(六世紀 から七世紀前半)に勢力を持っていた朝鮮半島・高句麗系の氏族である。

蘇我一族の氏名である「蘇(so)」はチーズの一種であり、蘇我一族の母国とされる朝鮮半島の付け根に栄えた高句麗国は、大陸の蒙古・満州の牧畜地帯から半島に来た部族と伝えられている。

蘇我氏の姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた古代の有力豪族である。

百済国の高官・木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が「同一人物である」と言う説があり蘇我氏百済説も在るが、蘇我稲目(そがのいなめ)の父が蘇我高麗(そがのこま)を名乗る点と、蘇我氏と高句麗の交流やその後蘇我氏が最有力氏族になった時点での高句麗系の隆盛から、我輩は蘇我氏・高句麗系説を採っている。

蘇我氏は言わば少し遅れて来た高句麗系の新興勢力で、物部氏の神道の様に宗教的基盤のない蘇我氏の棟梁・蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教を大和朝廷に導入、統治に利用する事を考える。

つまり当初の蘇我氏による仏教支持はその教義に傾倒した訳ではなく、有り勝ちな事だがあくまでも勢力争いの具である。

蘇我高麗(そがのこま)の子、蘇我稲目(そがのいなめ)は飛鳥時代の大臣で、物部氏物部尾輿(もののべおこし)と仏教の扱いで対立するが、当時は物部氏の力が強く中々決着が着かない。

しかし、五百三十六年(宣化元年)に宣化大王(おおきみ・天皇)の大臣(おおおみ)と成り、大王(おおきみ)の命を受けて尾張国の屯倉の籾を都に運び、凶作に備えた。

五百四十年(欽明元年)には大王(おおきみ・天皇)が欽明に代わり即位する。

蘇我稲目(そがのいなめ)は引き続き大臣(おおおみ)に止まり、欽明大王(おおきみ・天皇)の寵愛を得て娘の堅塩媛都(きたしひめ)小姉君(おあねのきみ)他、娘三人を全てを欽明大王(おおきみ・天皇)の妃として外祖父となり、最有力氏族と成る。

稲目の妻は葛城氏の出自と推測され、この宮廷内の閨閥にはその力も影響しているかも知れない。

欽明大王(おおきみ・天皇)に嫁した堅塩媛(きたしひめ)は七男六女を産み、その内・大兄皇子(おおえのみこ・用明天皇)と炊屋姫(かしきやひめ・推古天皇)が即位している。

小姉君(おあねのきみ)は四男一女を産み、そのうち泊瀬部皇子(はつせべのひめみこ・崇峻天皇)が即位している。

この六世紀・飛鳥時代には、蘇我氏の存在で大和と高句麗の関係も改善され、人的交流を含む文化交流も盛んに成って新たに高句麗系の豪族も誕生している。

狛江(こまえ)市や巨麻(こま)群などの地名は、高句麗系の豪族と縁が深い。

つまり地方を領する有力豪族(部族王・御門・臣王・国主/くにぬし)達の勢力争いは、その出身である彼らの祖国と日本列島・大和朝廷の関係に大きな影響がある時代だったのである。

蘇我馬子】に続く。

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by mmcjiyodan | 2009-01-10 21:06  

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