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大谷吉継(おおたによしつぐ/大谷刑部)の関が原

武将とは一族郎党の一群を率いる棟梁で、その決断能力に一族郎党の命運が掛かっている。

従って、参陣はしたものの関が原戦の当日までどちらに着くか迷う武将が在っても仕方がない。

哀しい事に、本当に石田方として獅子奮迅の働きをしたのは、石田三成の手勢・兵六千に加え、三成の盟友・手勢の兵四千の小西行長と大谷吉継(大谷刑部)の率いた平塚為広(ひらつかためひろ)との連合軍・僅か六千に足らぬ兵力の計一万六千だけだった。

近江国の武士・大谷盛冶と豊臣秀吉の正室の高台院(北政所、おね、ねね)の侍女で、東殿と言う母の間に幼名・慶松(よしまつ/大谷吉継)は生まれた。

大谷吉継は、母の伝で天正初め頃に秀吉に仕官して小姓となり、その律儀さで寵愛を受ける。

千五百八十三年(天正十一年)、明智光秀が起こした本能寺の変織田信長が落命すると、柴田勝家と秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いが起こった時、吉継は長浜城主・柴田勝豊(勝家の甥/勝家の養子)を調略して内応させ、賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てる。

賤ヶ岳の戦いから二年後、大谷吉継は従五位下・刑部少輔に叙任され、以後「大谷刑部」と呼ばれるようになる。

刑部少輔叙任の翌年の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられて功績を立て、その功績などで千五百八十九年(天正十七年)に秀吉から越前国の内で敦賀郡・南条郡・今立郡の三郡・五万石を与えられ、吉継は越前・敦賀城主となった。

大谷吉継は徳川家康とも親しく、淀君のプライドと秀頼可愛さも在って険悪化する豊臣(石田方)と徳川(家康方)との間に入って関係修復に動き奮闘するが、修復に失敗している。

関が原の合戦前には、三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられ、吉継は「勝機無く無謀」と説得するが、三成の固い決意を知り、敗戦を予測しながらも病(ハンセン病と伝えられる)をおして三成の下に馳せ参じ、諸大名を味方に取り込む事に腐心して西軍・豊臣(石田方)に与力している。

大谷吉継(大谷刑部)は、むしろ徳川家康の人柄、将たる者の器に心酔していた。

しかし人間には、例え九割、否九割五分心酔している相手にでも、己が信ずる譲れない五分がある。

それは馬鹿正直で不器用、純真を絵に描いたような石田三成の豊臣家を思う真情への共感だった。

病に冒されていた大谷吉継(大谷刑部)にしてみれば、滅び行く豊臣家に憐憫の情を抱いたのかも知れない。

ここに到って、豊家(豊臣家)拠りも徳川家が圧倒的な力を持っている事が、判らない大谷吉継(大谷刑部)では無い。

これは正に、大谷吉継(大谷刑部)と言う男の「生き様」の問題だった。

関が原に於ける戦闘では、吉継は関ヶ原の西南・山中村の藤川台に布陣、東軍・徳川(家康方)の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に決戦を挑んで奮戦の最中、小早川秀秋の裏切りに合い、一万五千の小早川勢と互角に戦って一進一退の所に、脇坂安治・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱の四隊・四千三百が東軍・徳川(家康方)に寝返り、大谷隊の側面に総攻撃を仕掛けられて総崩れになり、「もはや挽回は不可能」と判断して自害している。

大谷吉継(大谷刑部)は、その関が原の奮戦振りと敗戦覚悟の石田三成への友情に殉じた生き様から、名声を博して今日に語り継がれている。

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by mmcjiyodan | 2009-02-23 03:59 | Comments(0)  

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