元禄・赤穂事件(俗称・忠臣蔵)

ご存知赤穂義士の討ち入りの顛末は、毎年の様に十二月十四日前後にテレビ放映されるので経緯及び詳細は割愛する。

高家肝煎(こうけきもいり)・三州(三河国)・吉良家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ)と播州(播磨国)赤穂・浅野家の浅野長矩(あさのながのり)の間で、儀典の指導に関して浅野長矩との間に確執を生じ、江戸城内で刃傷(にんじょう)に及んだ事件が発端である。

吉良家は名門清和源氏足利氏の末裔であり、鎌倉幕府の有力御家人から南北朝並立時代は北朝・足利方に在って室町期は小領主ながら足利将軍家の近臣として仕えて生き延び、戦国期は同門でもあり隣国でもある駿河、遠近江・の国主今川氏や同じ三河の松平氏に翻弄される。

吉良家は盛衰を繰り返しながら江戸期を迎える。


千五百九十二年(天正二十年)、格式高きを持って徳川家康に取り立てられ徳川家旗本に列した吉良氏は、江戸幕府の儀典関係を取り仕切る家として高家筆頭の家格を与えられる。

徳川家康が三州・吉良家(四千二百石)や元駿河国・今川家(一千石)が、高家旗本(こうけはたもと)として幕臣に列したのは他にも訳が在る。

彼らの家が足利系流れであり、事の真相はともかく徳川家も出自を足利系得川家と名乗っていたからである。

赤穂義士の討ち入り時の当主・上野介(こうずけのすけ)義央(よしひさ)は、三河国吉良庄内三千石の領主だった。


一方の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩(ながのり)は、浅野長政を始祖とする安芸広島藩四十二万石・浅野家の傍流の一つで赤穂・浅野家五万三千石の藩主だった。

播州(播磨国)・浅野家は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の曽祖父・浅野長重(あさのながしげ)は浅野長政の三男である。

浅野長重(あさのながしげ)は、第二代将軍・徳川秀忠の小姓として仕え、家康、秀忠の二代の将軍の信任を得て下野国真岡藩二万石を与えられる。

その後父・浅野長政が隠居料として与えられていた常陸国真壁の五万石を相続した後、その嫡男・長直の代に赤穂藩主へ転封されていた。

この吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)と浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の刃傷(にんじょう)事件が、ご存知主君仇討ちの美談、赤穂義士四十七名の吉良邸討ち入りに発展したのだ。

千七百一年(元禄十四年)三月十四日、午前十時頃、吉良義央(きらよしひさ/上野介)は江戸城内大廊下(松の廊下)にて長矩(ながのり)から額と背中を斬りつけられた。

長矩(ながのり)はその場に遭遇した旗本・梶川頼照らに取り押さえられ、義央(よしひさ)は高家・品川伊氏・畠山義寧らによって蘇鉄の間へ運ばれ、外科医・栗崎道有の治療のおかげで命は助かり額の傷は残らなかった。

その後義央(よしひさ)は、目付・大久保忠鎮らの取り調べを受けるが、吉良は「拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心と相見へ申し候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由」と答えていると、長矩(ながのり)を取り調べた目付・多門重共の「多門筆記」に記載がある。

浅野長矩(あさのながのり)は、事態に激怒した将軍・徳川綱吉の命により、即日切腹となる。

年の暮れも押し迫った旧暦の元禄十二月十四日(新暦では翌一月末頃)の雪の降りしきる日、元家老・大石内蔵助良雄以下赤穂義士四十数名(連絡係りなどで討ち入り参加しない者在り)が吉良邸へ討ち入り、吉良上野介義央を討ち果たす。

その吉良の首を泉岳寺の主君・浅野内匠頭長矩の墓前に捧げた後、大目付の下に出頭、口上書を提出し幕府の裁定に委ね、細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、水野監物の四大名諸侯の屋敷へお預かりとなり、五十日に及ぶ議論の末に幕命により切腹した。

大石蔵之助には「昼行灯(ひるあんどん)」と言うあだ名が在ったが、ボーッとして居る男を見た目だけで甘く見て舐(な)めては駄目である。

彼は熟慮中で、セコセコと「働いて居る振りだけをする者」よりは余程まともな男かも知れない。

がさつな人間に限って、見た目でボーッとして居る人間を許せないが、言い換えれば「見る目が無い」と言う事に成る。

ここからが肝心だが、将の器の部下を見抜けずにボーッとして居る部下にイライラする男も、大した人物では無い事に成る。

元禄・赤穂事件は「義挙」と称えられている。

しかしながら、正直この美談の吉良邸討ち入りは、我輩に言わすと当時の仇討ち作法としては「武士として尋常な勝負」とは言い難い矛盾を感じる。

「それも兵法の内」と言えばそれまでだが、不意討ちの討ち入りの上に一方は頭巾に兜や鎖帷子(くさりかたびら)を着した戦(いくさ)支度の武装に対して、不意討ちされた吉良方は武器を手取るのに精一杯で、それが死傷者に大差がつく結果となって勝負は着いて居る。

また、この忠臣蔵(元禄・赤穂事件)に於ける読み本・脚本の類も、京都・西本願寺から発見された「築地本願寺からの報告書」では、異なる事実が書き記されている。

尚、この元禄赤穂事件の裁定を主導したのが、第五代将軍・徳川綱吉の側用人として辣腕をふるったとされる柳沢吉保だった。

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by mmcjiyodan | 2009-04-04 03:09 | Comments(0)  

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