浅野長政(あさのながまさ)

前述で秀吉恩顧大名の生き残りは「蜂須賀家だけ」と言ったが、実はもう一家芸州(安芸)広島藩・浅野家が残っている。

但しこの浅野家、開祖にあたる浅野長政(あさのながまさ)と藩祖にあたる長政嫡男・浅野幸長親子共に徳川家康と親しく、秀吉恩顧大名の中では異色な立場に在った。

浅野幸長は母が信長の乳母であり織田信長とは乳兄弟になる尾張織田氏・織田信長重臣の池田恒興(いけだつねおき)の娘を正室に迎えている。

この池田恒興(いけだつねおき)の次男・池田輝政(いけだてるまさ)は、浅野幸長同様に徳川家康に可愛がられ、関が原の戦いでは家康方東軍に与して播磨国姫路五十二万石に加増移封され、池田家は姫路城主として明治維新に至るまで生き残っている。

浅野家(浅野長勝・織田家弓衆)は、豊臣秀吉の正妻・「おね(ねね・高台院)」の父親・杉原(木下)定利の妹の嫁ぎ先で、おね(ねね・高台院)を養女として預けた家である。

「おね(ねね・高台院)」はこの浅野家の養女時代に、主君・織田信長が使っていた小物・藤吉郎(とうきちろう)に木下姓を与えて嫁がせた所、その木下藤吉郎が主君・織田信長に気に入られて目覚しい出世を始める。

木下藤吉郎が織田軍団の中で頭角を現して羽柴秀吉を名乗る武将になると、信長の命で浅野長政は秀吉にもっとも近い姻戚として秀吉の与力となり、千五百七十三年(天正元年)の近江国・浅井長政攻めで活躍したのを皮切りに織田信長の直臣ながら秀吉の与力として有力武将の地位を固めて行く。

本能寺の変が起こり主君・織田信長が明智光秀に討たれると、信長の死後は秀吉に仕え賤ケ岳の戦いや九州征伐などで武功を挙げ、秀吉が天下を掌握して本格的に豊臣政権が誕生すると、九州征伐の功により若狭国小浜八万石の国持ち大名となった。

また浅野長政は行政手腕にその卓越したものがあり、京都所司代を務めたり太閤検地を主導して行うなど実務面でも力量を発揮、文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮出兵でも武功を挙げて、秀吉より甲斐国二十二万石を与えられ、豊臣政権下の東国大名の取次役を命じられている。

浅野長政は、豊臣秀吉の晩年には徳川家康の他、毛利輝元上杉景勝前田利家宇喜多秀家、小早川隆景らの五大老に次ぐ豊臣政権の五奉行に、石田三成(いしだみつなり)、増田長盛、前田玄以、長束正家らと共に任じられて政権運営に参画し深く関わっている。

長政は、嫡男・浅野幸長に家督を譲って隠居した。

この隠居に際して長政は、隠居料として常陸国真壁に五万石を与えられた事が、この隠居料が残って後の播州(播磨国)赤穂・浅野家の分家となり、後の大事件「元禄・赤穂事件」に繋がるのである。

秀吉没後の関が原の戦いでは、長政は恩顧大名でありながら家康の嫡男・徳川秀忠に属して徳川方に参軍し、長政嫡男・浅野幸長は徳川家康率いる東軍に属し、南宮山付近に布陣して毛利秀元、長束正家などの西軍勢を牽制し、戦勝に貢献している。

その功により浅野幸長は、家康から紀伊国和歌山に三十七万六千石を与えられ初代紀州藩主となるが、子供の居なかった浅野幸長の弟・浅野長晟(あさのながあきら)が紀州藩浅野家の跡を継いで、福島家の改易に伴い浅野家は芸州(安芸国)広島に加増転封され四十二万石を拝領する。

浅野長政・浅野幸長親子が東軍・徳川方に参軍した事については石田三成との不仲説もあるが、小早川秀秋同様にその出自が淀君(浅井茶々)よりも「おね(ねね・高台院)」に近かった事がその動機ではないだろうか?

浅野幸長(あさのよしなが)・浅野長晟(あさのながあきら)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2009-04-04 03:11 | Comments(0)  

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