芳春院・篠原まつ(ほうしゅんいん/前田利家の正室)
母が利家の母の姉である為、利家とは母方の従兄妹関係にあたり、母が尾張守護斯波氏の家臣・高畠直吉と再婚すると、まつは母の縁で利家の父・前田利昌に養育される事になる。
千五百五十八年(永禄元年)、まつは養育先の荒子前田家・利昌の四男・利家に数えの十二歳で嫁ぐ。
この二十一歳の頃に十二歳のまつを娶った前田利家だったが、その翌年に織田家同朋衆の拾阿弥と争いを起こしてこれを斬殺、罪を問われて出仕停止処分を受け、二十四歳までの二年間浪人暮らしをする。
前田利家の正室まつは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の正室・おね(ねね/北政所/高台院)とは懇意の間柄であった事は有名である。
利家の方が秀吉より二歳ほど年下だったが、元々前田家の本拠地・尾張国荒子と秀吉の生家・尾張国中村は近接地で地縁者も多く、互いに出世した安土城々下に住んでいた頃は、屋敷の塀を隔てた隣同士に秀吉・おね(「ねね」とも言われる)夫妻が住んでおり、秀吉婦人・おねと利家婦人・まつは毎日のように「どちらかの屋敷で話し込んでいた」と言う間柄だった。
当然亭主同士も懇意になり、この事が後の賤ヶ岳の戦いで兵五千を布陣していた前田利家の突然撤退、羽柴軍勝利を決定づける下地になっていた。
【佐久間盛政(さくまもりまさ)と賤ヶ岳の合戦】に飛ぶ。
本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれ、清洲会議において羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が対立した時、柴田勝家に与力して従った前田利家だったが、旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ利家の決断が、後の加賀百万石を産んだ事になる。
まつの夫・前田利家は柴田勝家と羽柴秀吉(豊臣秀吉)が合見(あいまみ)えた賤ヶ岳の合戦に柴田方として兵五千を布陣していたのだが、旧交があった秀吉との関係にも苦しんで突然撤退を始め、柴田方総崩れの羽柴軍勝利を決定づける下地を作っている。
これには、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の正室おね(ねね/北政所/高台院)と利家の正室まつ(芳春院)との懇意の間柄が、利家をして羽柴方に寝返る決意をさせたようである。
賤ヶ岳の合戦に勝利した羽柴秀吉は天下をほぼ手中にすると、前田利家に佐久間盛政の旧領・加賀の内から二郡を与え、二年後には嫡子・前田利長に越中が与えられ加賀、能登、越中の三ヵ国の大半を領地とした加賀・前田藩百三万石の大藩が成立、利家は豊臣政権の五大老の一人となる。
豊臣秀吉が病没して後、実力者・徳川家康の天下取りの野望を抑えに注力した前田利家も病で秀吉の後を追うと、前田家討伐の好機とばかりに家康により加賀征伐が検討される。
この時戦国の賢婦人と名高いまつは、夫・前田利家の没後出家して芳春院を名乗って息子・利長を守り立て加賀藩を影に主導している。
前田家二代当主・前田利長は最初は家康と交戦する積りで城を増強したりなどしていたが、母の芳春院(まつ)が人質になる事を条件に家康を説得、加賀征伐撤回させる事に成功して、前田家当主・前田利長は家康に恭順して生き残った。
当時前田家は大藩で、家康としても事を構えれば同調者も現れる可能性まで読めば例え勝利しても厄介だった為、芳春院(まつ)の提案を受け入れたのだろう。
豊臣家五奉行の一人石田三成と五大老の一人徳川家康が対立関ヶ原の戦いが起こる。
関ヶ原の戦いに際して前田家は、長男・前田利長が東軍、次男・前田利政が西軍に分かれて生き残りを図り、東軍の勝利で前田利長が百万石を越える所領を得、分家所領を入れると約百二十万石の大藩・前田家を形成し、江戸期に唯一外様の百万石越えの藩を永らえた。
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