源頼朝(みなもとよりとも)落馬死の謎

源頼朝は坂東(関東)武士をまとめて鎌倉に屋敷を構え、富士川以東を完全に勢力下に置くと、富士川の戦い平家の頼朝追討軍を打ち破って都に追い返す。

従兄弟の木曽義仲が挙兵し、平家一門を都から追い落として京の都制圧に成功すると、源頼朝は後白河法皇と連携し、弟の源範頼源義経を派遣して木曽義仲を追討させる。

京の制圧に成功すると、ただちに源範頼・源義経の軍勢を西国に派遣して木曽義仲に都から追い出されて都落ちしていた平家一門の軍勢を、西国方面一の谷、屋島、壇ノ浦と戦勝しで討伐に成功した源頼朝は、源義経を利用しようとした後白河法皇との駆け引きにも勝ち源義経の討伐を策したが、義経は奥州(東北)藤原家を頼って藤原秀衛(ふじわらひでひら)の下に逃げ込んでしまう。

源頼朝は藤原秀衛(ふじわらひでひら)の死後息子の藤原泰衡を脅して平泉・高館(たかだち)/衣川館に義経を打たせた後、奥州(東北)藤原家を責め滅ぼして天下を手中にする。

武力で対抗する者が居なくなって鎌倉の源頼朝に権力が集中し、朝廷の力は弱まり、政治権力は鎌倉幕府が確実に掌握しつつあった。

しかし頼朝は、征夷大将軍就任後僅か七年で落馬が元で亡成っている。

この落馬も、その後の源頼朝の正妻・北条政子の「子殺し(源頼家源実朝)」を見ると、本当に事故か疑ってしまう。

肉親の愛に飢えていた源義経に比べ身内をも信じなかった頼朝が、「身内に裏切られたのではないか」と推測するのは、自然な事では無いだろうか?

いずれにしても、落馬事故とは「天下を掌握した男」にしてはあっけない頼朝の死に方である。

「フト」、頼朝は腹の底から笑う事を忘れたまま死んで行ったような気が、我輩はした。

鎌倉幕府の編纂した正史・吾妻鏡には、何故か空白がある。

不自然極まりない事に、「吾妻鏡」には初代将軍・鎌倉殿・源頼朝の死の前後三年間が欠落していて、それが「源頼朝落馬死の謎」である。

通説では、千百九十八年(建久八年)の十二月に相模川の橋供養に臨席した源頼朝が帰路に落馬し、それが原因で「十七日後の翌年一月半ばに死去した」と伝えられているが、不審な事が多い。

鎌倉殿・源頼朝が「落馬が原因で死んだ」と「吾妻鏡」に書かれたのは死後十三年も経った後の事で、当初は死因も死亡時期も明確な記載が無く、「本当に事故死だったのか?」と言う疑問が湧くのは当然である。

また都合の悪い事を排除し、この謎をその権力で創造し得るのは尼将軍と謳われた北条正子以外には考えられず、我が子(源頼家と源実朝)を含め異常なまでに源氏の血を排除し、北条執権家(得宗家)を確立した事を考えれば、「北条政子下手人説」が浮上して来るのは当然の結果である。

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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2009-04-17 04:11 | Comments(0)  

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