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仁海(じんかい)僧正

真言密教陰陽道を究めた人物に仁海(じんかい)僧正がいる。

陰陽寮首座・安倍晴明より少し後の、平安中期の時代に活躍した仁海(じんかい)僧正は、しばしば五行の考えに基づく易を使う。

仁海(じんかい)僧正は真言宗の密教(東密)の総本山・東寺の長者(東密根本道場の最高位)と成り、九十余歳の長寿を保った伝説的な僧侶である。

和泉国の小豪族の家に生まれ、七歳で高野山に登った仁海(じんかい)僧正は、そこで占星術を身につけ、学僧としても知られるように成り、僧籍に在りながら良く陰陽呪術を修めしばしば五行の考えに基づく易を使い、占術の祈祷で「祈雨祈願に成功した」とされ、名声を博した仁海(じんかい)僧正は「雨僧正」と呼ばれる。

この事は当時の僧侶が仏教の経典だけではなく、中国の「易経」のような中国特有の古典にも通じていた事を示している。

正直、予め中華文明の気象学に通じていれば、「祈雨祈願の成功」など確立は高かったのかも知れないが、当時の日本列島では充分に「名僧の為したる事」と畏怖の念を持って認められたのかも知れない。

醍醐寺・隨心院 (ずいしんいん)は、九百九十一年(平安時代中期・正暦二年)に雨僧正と呼ばれていた仁海(じんかい)僧正によって建立され、千二百二十九に門跡寺院となった真言宗善通寺派の大本山である。

仁海(じんかい)僧正の私生活を「生臭坊主であった」とする評があるが、それは当時の僧を後世の常識感覚で「女犯」などと評するからである。

そもそも、日本の神官や僧侶は、長い事氏族が武士や官僚と兼務していたもので勢力争いもするし女性も抱く。

高僧と言えども例外ではないから、正妻を置いたかどうかを問わなければ、江戸期以前の僧侶は全て「生臭坊主」である。

と言うよりも、密教僧に於いては「女性との交わりを呪詛パワーの源」と言う解釈が、真面目に為されていたのである。

平安中期の当時としては、九十余歳の長寿を保った伝説的な僧侶・仁海(じんかい)僧正は、自らの真言密教と陰陽道の性交呪詛「歓喜行」を持って長生きを為したのかも知れない。

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by mmcjiyodan | 2009-04-26 04:10  

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