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阿曇氏(あづみし/安曇族)と安曇比羅夫(あずみのひらふ)

この白村江(はくすきのえ)の戦いに顔を出すのが、古代日本の氏族で海神(海人族)である綿津見命(わたつみのみこと)を祖とする阿曇氏(あづみし/安曇族)・安曇比羅夫(あずみのひらふ)である。

海部(あまべ)の民長・安曇連(あづみのむらじ)は古事記では綿津見(わたつみ/渡っ海)神の子・宇都志日金柝命の子孫とされ、海積(あまづみ)より生じ連(むらじ)を名乗るが後に宿禰(すくね)を賜る。

後世は安住(あずみ)氏、安積(あずみ)氏、阿曇(あずみ)氏、阿積氏(あずみ)、また、厚見(あつみ)氏、厚海(あつみ)氏、渥美(あつみ)氏、英積(あつみ)氏など多様の表記の氏が起こって夫々に分かれている。

阿曇氏(あづみし/安曇族)は、筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)を発祥地とする海人族として知られ、阿曇(安曇/あずみ)を古くは海人津見(あまつみ)と書き、その海人津見(あまつみ)が訛って阿曇(安曇/あずみ)になった。

阿曇氏(あづみし/安曇族)は古代日本を代表する神格化された有力氏族として「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、「古事記」では「阿曇連(あづみのむらじ)はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。

北九州の志賀島一帯から全国に移住し、安曇(海人津見/あまつみ)が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達し、さらに内陸部の信濃国安曇郡(長野県安曇野市)にも名を残している。

安曇比羅夫(あずみのひらふ)は七世紀中頃の外交官兼武将で、山城国(やましろのくに/大阪府南河内郡)を本拠地として姓(かばね)を山背連(やましろむらじ)と名乗る。

比羅夫(ひらふ)は百済(くだら・ペクチェ)に使者として派遣されていた縁で百済(くだら・ペクチェ)の王子・翹岐(ぎょうき)を自分の家に迎え、高句麗(こうくり・コグリョ)が唐帝国と新羅(しらぎ・シルラ)の連合軍の攻撃を受けると百済(くだら・ペクチェ)を救援する為の将軍となって百済に渡り援軍として戦っている。

百済(くだら・ペクチェ)が唐と新羅(しらぎ・シルラ)の連合軍に追い詰められ、百済(くだら・ペクチェ)の王子・豊璋が救済を求めて日本へ渡来すると、王子を王位に就けようと水軍百七十隻を率いて百済(くだら・ペクチェ)に渡り、白村江(はくすきのえ)の戦いで戦死した。

まだ阿曇氏(あづみし/安曇族)には多くの謎があるが、この辺りの安曇比羅夫(あずみのひらふ)の行動から、阿曇氏(あづみし/安曇族)の列島渡来以前の祖国が百済であっても不思議はない。

信濃国安曇郡(長野県安曇野市)は阿曇氏(あづみし/安曇族)の有力な本拠地の一つで、安曇比羅夫(あずみのひらふ)は安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)として祀られている。

安曇比羅夫(あずみのひらふ)が山背国(山城国)ではなく信濃国安曇郡(長野県安曇野市)に祀られて居る訳は、我輩の推測によると白村江(はくすきのえ)の戦いの敗戦処理でやって来た占領軍に山背国(山城国)を追われた為、本拠地を信濃国に移さざるを得なかったのではないかと考えている。

つまり正史に書き残されていない新羅(しらぎ・シルラ)の占領軍の存在が、阿曇氏(あづみし/安曇族)を一族諸共に山背国(山城国)から追ったのであれば判り易いのである。

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by mmcjiyodan | 2009-05-16 18:44  

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