方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)

大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)の切欠に使われた方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)は、誰かの入れ知恵で徳川家康が最初から書いた筋書きである。

豊臣家は過って羽柴(豊臣)秀吉が建立し地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿を、徳川家康の勧めにより豊臣家二代・豊臣秀頼が再建する事になった。

そしてその東山方広寺の修営が終わり梵鐘の銘が入れられた時、家康はその文言に重大な言いがかりをつけたのである。

梵鐘の銘「国家安康」という句は家康の名を分断したものであり、「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」と解釈を為し、「徳川家を呪って豊臣の繁栄を願うものだ」と激怒して見せたのである。

無理に解釈した家康の言い掛かりに過ぎないが、これを受けた豊臣家は駿府の家康の下に片桐且元(かたぎりかつもと)を弁明の為に派遣する。

ところが、使者に立った且元は家康に目通りも許されずに狼狽する。

漸く本多正純や金地院崇伝(こんちいんすうでん)と言った家康の側近から、且元は「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、この内のどれかを選ぶように」との内意を受け大阪城に持ち帰る。

しかしはその全てが仕掛けた策謀で、今一人豊臣家の使者として駿府へ立っていた大蔵卿の局(淀殿や豊臣秀頼の乳母・大野治長の母)の持ち帰った証言に拠ると、「家康は機嫌良く会い、鐘銘の事には少しも触れないばかりか、秀頼は将軍・秀忠の娘婿でもあるのでいささかの害心もない」と明言したと言う。

この報告の違いで家康に直接会った大蔵卿の局の報告を信じ、淀君は片桐且元の裏切りを疑った。

片桐且元(かたぎりかつもと)の持ち帰った三ヶ条は、且元が「徳川家臣と示し合わせて豊臣家を陥れようとするものに違いない」と信じ込んだのである。

結果、淀君の信頼を失った豊臣家の忠臣・片桐且元は、大坂城を退去するに至っている。

この「方広寺鐘銘事件」のきっかけになった東山方広寺再建の家康の助言からして、秀吉の遺した軍資金を大な再建経費で消費させる事が目的であり、言い掛かりをつけた上で三ヶ条を提示し、それを持ち帰った片桐且元を放逐した事は「幕府に対する反抗意志である」と断定する口実を与え、大坂城攻撃を決定するに至る描いた筋書き通りに事が運んだのである。

第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2009-06-23 04:19 | Comments(0)  

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