大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(一)開戦経緯

成立した和議の条件に乗っ取って、大阪城の一部破却が始まる。

なお、冬の陣の終了後の和議の条件により出城(砦)・真田丸(さなだまる)は破壊された。

信繁が真田信繁よりも今では世間の通りが良い真田幸村を名乗ったのは、冬の大阪の陣で一旦和睦し、真田丸を失った以後の文献に登場したからである。

出城(砦)・真田丸の正確な位置については幾つか説が在り、確かな遺構も残っていない為にまだどれも決定的には成って居ない。。

和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。

この城割(城の破却)に関しては古来より行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すといった儀礼的なもので在ったが、徳川側は家康の命を受け徹底的な破壊を実行する。

講和後、味方した諸将も国表に帰らせ、大御所・徳川家康本人も駿河の居城(駿府城)に引き上げた。

駿府に帰る道中に家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。

城割(城の破却)はその年の末から美濃の諸将を率いる松平忠明、重臣・本多忠政、重臣・本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を埋め。

翌年の一月より二の丸も埋め立て始める。

二の丸は本来豊臣方の受け持ちの為豊臣方は抗議するが、幕府方は「工事が進んでいないので、手伝う」と強引に進め、二の丸の門や櫓も徹底的に破壊している。

約していなかった二の丸まで「だまし討ちで幕府方が埋め立てた」は後の作家の手に拠る俗説で、二の丸の埋め立ては当初からの和議の内なるが、幕府方が受け持ちを逸脱して二の丸の埋め立てに関わったのは事実である。

二の丸の埋め立てについては幕府方も相当手間取ったらしく「周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した」と伝えられている。

此処で新たな問題に成ったのが、豊臣方が召抱えていた浪人達である。

幕府方は浪人達の仕置きこそお咎め無しにしたが雇った浪人衆は七万人以上に上り六十五万石の豊臣家には相応せず、まさかそのまま豊臣家が召抱えるなど思いも依らなかった。

和議で一部解雇はしたものの、豊臣家はまだ都合八万ほどの兵力を維持したままで、とてもこのまま収まるとは思えない情勢だった。

家康は和平成立後京都から駿府へ戻り、秀忠も伏見に戻ったが、一方で家康は国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、再戦の準備を行っている。

そうした中、京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ)より駿府へ大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞と言った「不穏な動きがある」とする報が届く。

幕府方はその報告を受け、浪人の解雇と豊臣家の移封を要求し、その二週間後には畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛する事、小笠原秀政に伏見城の守備に向かう事を命じた。

三日後、家康は徳川義直(家康の九男)の婚儀の為と称して駿府を出発、名古屋に向かう。

その道中の途中で、大野治長の使者が来て「豊臣家の移封は辞したい」と申し出る。

もはやこれまでの回答に、家康は常高院(京極高次の正室/浅井初)を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ(そう言う事ならどうしようもない)」と豊臣方に伝え、すぐさま諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じている。

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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2009-06-28 02:37 | Comments(0)  

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