大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(三)大阪城落城

大坂城近郊に後退した豊臣方は、最後の決戦の為に現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築する。

天王寺口は真田信繁、毛利勝永など一万四千五百、 岡山口は大野治房ら四千六百、別働隊として明石全登三百、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計一万四~五千が布陣する。

これに対して幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟四万を茶臼山方面に、その前方に松平忠直一万五千が展開し、 天王寺口は本多忠朝ら一万六千二百、その後方に徳川家康一万五千が本陣を置き、 岡山口は前田利常ら計二万七千五百、その後方に近臣を従えた徳川秀忠二万三千が本陣を置いた。

豊臣家滅亡を画していた徳川家康の野望は、正に大詰めを向えていた。

戦国最大にして最後の戦いとなる大阪攻め、大激戦となった天王寺・岡山合戦は正午頃に開始された。

果敢に攻め込む豊臣方の真田信繁(幸村)・毛利勝永・大野治房などの突撃により、幕府方の大名・侍大将に死傷者が出て幕府方徳川家康・秀忠本陣は大混乱に陥る場面も在ったが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直す。

この果敢な攻撃に豊臣方は多くの将兵を消耗し、流石の真田信繁(幸村)も松平忠直の越前勢に討ち取られて午後三時頃には壊滅状態に陥り、唯一戦線を維持した毛利勝永の指揮により豊臣方は城内に総退却した。

城内に総退却をしてみたものの、大坂城は本丸以外の堀を埋められ裸同然となってもはや殺到する徳川方を防ぐ術が無い。

真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、豊臣秀頼淀君らとともに籾蔵の中で毛利勝永に介錯され自害し大坂城は陥落した。

豊臣秀頼に嫁していた徳川秀忠の娘・家康の孫・千姫(せんひめ/天樹院)は落城寸前に大阪城を脱出、秀頼の子の国松は潜伏している所を捕らえられて処刑、また娘の奈阿姫は僧籍に入る事で助命された。

この大坂の役は言わば戦国生き残り合戦の最終章にあたり、殺傷力が強い史上最多の最新銃砲火器に拠る交戦だった事から、過っての弓矢・槍・太刀と言った武器に依る交戦と違って死傷者も多く、また相手の選別には不向きな武器の為に大阪城に立て篭もる女子供・町人なども無差別に攻撃を受ける悲惨なもので、つまり死屍累々の地獄絵図が繰り広げられた戦だった。

戦後の大坂城には松平忠明(奥平松平家初代)が移り、街の復興にあたった。

幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き西国支配の拠点の一つとした為、以降大坂は将軍家の直轄地となり、「天下の台所」と呼ばれる大商業都市となる。

大坂復興が一段落すると、松平忠明は大和郡山十二万石に加増移封された一方、松平忠輝(家康の六男)は総大将を務める天王寺合戦で遅参した事が理由の一つとなり翌年に改易となった。

また松平忠直(結城秀康の長男)は、予(か)ねて家康が腐心した「無い袖は振れない」を読めずに大坂城一番乗りの褒賞が大坂城や新しい領地でもなく茶器・「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみであった事を不満としており、後に乱行の末改易となった。

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皇統と鵺の影人
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by mmcjiyodan | 2009-06-28 02:43 | Comments(0)  

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