伊達政宗(だてまさむね)(2)苦闘編

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屈指の領国規模を奥州に築く大々名に成っていた伊達政宗(だてまさむね)だが、政宗には転機が訪れていた。

正宗が奥州(東北)に覇を唱えた頃には織田信長の統一事業を継承した豊臣秀吉が「天下布武」の最終段階に漕ぎ着けていて、秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が何通か届けられる。

当初無視していた正宗も同盟関係に在った関東に大国を領する後北条氏が秀吉の二十万余の大軍に攻められる(小田原征伐)に及んで、後北条氏に味方して秀吉と戦うべきか秀吉方に参陣して小田原攻めに参加するか直前まで迷っていた。

出した結論が、秀吉に服属し小田原攻めに参陣する事だった。

伊達政宗は戦国の世に生まれて、少なくとも奥州制覇を目論んだ男である。

しかし残念な事に奥州最大の戦国大名に手が届いた頃は、既に中央では豊臣秀吉が関東の後北条氏以西を制覇してその力は強大だった。

引く事も将の器の内で、ここで意地を通すのが必ずしも名将ではない。

圧倒的な秀吉の力を前にして、政宗は伊達家の存続を考えざるを得なかった。

伊達政宗の助勢援軍を頼りに小田原に篭城していた北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、後北条氏の滅亡と正宗の服属により残されていた関東と奥州は平定され、秀吉の天下取りは達成された。

関白殿下・豊臣秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉との対立をあきらめ服属する事で、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされた会津領などは没収されたが七十二万石になった本領を安堵される。

この時空いた合津領に、伊達政宗の抑えとして四十二万石で移封されて来たのが蒲生氏郷(がもううじさと)だった。

その後政宗は葛西大崎一揆に絡んで嫌疑をかけられ、扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城から玉造郡岩手沢城に五十八万石に減封されての転封となり、移封先の城名を岩出山城に変えている。

豊臣秀吉が朝鮮半島と中華帝国の平定の野心を抱き文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を決めると、政宗は従軍して朝鮮半島へ渡る。

この朝鮮出兵時に政宗が派手好みの秀吉が気に入るような戦装束を自分の部隊に着させ伊達家の部隊に誂(あつら)えさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において盛んに巷間の噂となった。

これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになって「伊達男」の語源になった。

太閤となり関白職を甥の豊臣秀次に譲った秀吉だったが、その関白・豊臣秀次が秀吉から謀反の疑いをかけられ切腹した時には秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう。

政宗自身も秀吉から秀次謀反への関与を疑われるも、最終的には無関係であるとされ連座の難を逃れている。

いずれにしても、織田軍団相手に不敗を誇った上杉家に直江兼続が在る限りの警戒と同様に、ほぼ奥州を平らげた伊達政宗の力量を秀吉は警戒して事あるごとに牽制していたから、それが正宗にとって忍従の日々だった事は事実である。

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by mmcjiyodan | 2009-07-22 03:26 | Comments(0)  

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