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佐々成政(さっさなりまさ)・出世編

佐々成政(さっさなりまさ)は、尾張国春日井郡比良城に拠った土豪・佐々氏、佐々成宗(盛政とも)の三男に生まれたが、兄二人が相次いで戦死した為に家督を継いで比良城主となり、織田信長今川義元桶狭間の戦いで破った頃に使えて馬廻衆となる。

成政(なりまさ)が勤めた馬廻衆の役目は、戦場で主君の本陣を構成して戦闘の他に護衛・伝令と言った役割を果たすものである。

織田信長に近侍する家臣組織にはこの本陣要員の馬廻衆と日頃信長に近従して身の回りの世話から政務の取次ぎなどを勤める小姓衆の二つが在り、小姓衆の内から選抜された赤母衣衆(あかほろしゅう)も同じく十名ほどで構成され、この黒母衣衆(くろほろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)が、信長の側近中の側近と言う事になる。

ちょうど主君・信長が美濃国の斎藤氏を滅ぼした頃、幾度の戦で戦功を重ねて頭角を表した成政(なりまさ)は、馬廻衆の中でも特に選ばれた十名ほどで構成する黒母衣衆(くろほろしゅう)の一員に抜擢され出世の糸口を掴む。

その後佐々成政は、信長が起こした越前朝倉氏・朝倉義景を攻めた時、同盟を結んでいた信長妹・市の方の嫁ぎ先である北近江浅井氏・浅井長政(あざいながまさ)の裏切りに合い、撤退戦となった金ヶ崎の退き口で殿(しんがり/主君撤退の時間を稼ぐ防衛戦)を勤めた木下秀吉(羽柴秀吉)の殿(しんがり)軍に馬廻衆を率いて参加し、秀吉を救援し活躍した。

その越前朝倉氏・朝倉義景と北近江浅井氏・浅井長政の連合軍と織田信長、徳川家康連合軍が戦った長篠の戦いでは、佐々成政は同じ黒母衣衆(くろほろしゅう)の野々村正成や赤母衣衆(あかほろしゅう)の前田利家・福富秀勝・塙直政らと共に鉄砲隊を率いて戦っている。

織田信長は、千五百七十五年(天正三年)に越前を制圧し、その北陸方面の軍団長とし筆頭家老の柴田勝家を置き与力として佐々成政・前田利家・不破光治(美濃国土豪で斉藤氏から織田氏に仕えた)の三人(府中三人衆)に越前府中三万三千石を共同で与え、一万一千石の大名格と成った佐々成政は小丸城を築いて居城とした。

北陸方面・柴田勝家の与力とは言え佐々成政・前田利家・不破光治の府中三人衆はあくまでも織田信長の直臣であったから、織田軍の遊撃軍として佐々成政も石山本願寺攻めや播磨平定、荒木村重征伐などに援軍として駆り出されている。

千五百八十年(天正八年)成政は主君・織田信長に命じられ、追放されて信長の下に流れ来て仕えた元・越中富山城主の嫡男・神保長住の助勢として対一向一揆上杉氏の最前線にある越中平定に関わる事に成る。

その越中平定の功に依り翌年に成政は越中半国を与えられ、翌年の長住失脚により一国守護として富山城に大規模な改修を加えて居城とした。

佐々成政(さっさなりまさ)・波乱編】に続く。

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by mmcjiyodan | 2009-08-08 15:08  

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