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細川忠興/長岡忠興(ほそかわただおき/ながおかただおき)

明智光秀の娘・細川ガラシャ(玉姫)の夫・細川忠興(ほそかわただおき)は、足利氏の支流・細川管領家の傍流の和泉国・上半国の守護家である細川藤孝の長男として京都に生まれている。

父・藤孝が将軍・足利義輝に仕える幕臣だった為に、足利義輝の命により同じ一族である奥州細川家の細川輝経の養子となる。

ただしこの養子縁組は系譜上のもので、細川忠興は養子縁組の後も京都に在って実父・藤孝と行動をともにし、領国・和泉国の上半国も継承した。

三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)松永久秀らの軍勢によって室町幕府第十三代将軍・足利義輝が京都・二条御所に襲撃され討死した永禄の変の後、父・細川藤孝は尾張・美濃の大名・織田信長を頼って義輝の弟・足利義昭を将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従し、忠興本人は信長の嫡男・信忠に近習として仕えた。

細川忠興は、天正五年に起こった紀伊国の紀州征伐に加わり十五歳で初陣を飾っている。

また忠興は、信長から離反した松永久秀(信貴山城の戦い)の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父・藤孝やその僚友・明智光秀と共に落として信長直々の感状を受け、さらに天正七年の一色攻めでは、信長の命を受けて父・藤孝や光秀と共に丹後国守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼす功を挙げている。

その年(天正七年)忠興は、信長の仲介を受けて明智光秀の三女・玉姫(細川ガラシャ)と結婚、この時信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となった。

翌年の天正八年、父・藤孝は功により一色義定領を除く丹後一国十二万石の領主となる。

主君・織田信長の天下布武は目前に迫っていた。

所が、千五百八十二年(天正十年)妻・ガラシャ(玉姫)の父・明智光秀が突如謀反を起こし主君・織田信長が本能寺に討たれてしまう。

この本能寺の変の後、明智光秀と中国大返しで戻って来た羽柴秀吉山崎の合戦で合間見える時、細川忠興は妻ガラシャ(玉姫)の父・光秀の支援要請に応えず傍観を決め込んで光秀軍を不利にしている。

この後細川忠興は、山崎の合戦に勝利し柴田勝家との賤ヶ岳の合戦をも征して天下統一を推し進める羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え丹後領有を許され、小牧・長久手の戦いに参加して功を挙げ、翌年従四位下、侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられた。

その後も九州征伐や小田原征伐、文禄の役にも出兵している。

千五百九十八年(慶長三年)、天下・人豊臣秀吉が死去すると、武功派大名の一人として石田三成ら吏僚派と対立し、徳川家康と誼(よしみ)を通じ、翌年には加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長池田輝政黒田長政らと共に石田三成襲撃に加わった。

その年、実権を握った大老・徳川家康から豊後・杵築六万石を加増され丹後十二万石と併せて十八万石を領している。

関ヶ原の戦いでは、細川忠興は徳川家康に与して東軍に参加している。

石田三成が大阪に挙兵した時、細川忠興は徳川家康の下で会津及び米沢・上杉家討伐軍に参陣していたが、豊臣恩顧の有力大名である上に、父・藤孝と正室・ガラシャ(玉姫)が人質として在京していた為にその去就が注目されたがいち早く東軍に入る事を表明し、「他の豊臣恩顧の大名の去就に影響を与えた」と言われている。

この夫・忠興の決断の為に、伏見に人質として留め置かれていた妻のガラシャ(玉姫)は西軍石田方の襲撃を受け、石田三成方の人質となる事を拒んで自害を余儀なくされた。

また、父の藤孝(幽斎)は忠興の留守を守り丹後田辺城に籠城したが、朝廷からの勅命により関ヶ原の戦い前に開城して敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入っている。

一方、関ヶ原の戦いに勝利した東軍に付いた細川忠興は、関ヶ原合戦の本戦で黒田長政らと共に石田三成本隊と激闘を演じ、首級百四十ほどを上げその功績から、戦後家康から豊前中津藩三十九万九千石の大藩に加増移封され、その後豊前小倉藩四十万石に移り小倉城を築城する。

その後の豊前中津藩・細川忠興であるが、千六百十四年(慶長十九年)、朝廷から征夷大将軍に任じられた徳川家と豊臣家の間で大坂の陣が起こり、細川忠興は徳川方に付くが三男の細川忠利が参陣し、忠興本人は大坂冬の陣の戦闘には参戦していない。

六年後、忠興は三男の細川忠利に家督を譲って隠居する。

千六百三十二年(寛永九年)、家督を譲った忠利が肥後熊本藩五十四万石の領主として熊本城に移封されると忠興は熊本の南の八代城に入り北の丸を隠居所とし、千六百四十五年に没した。

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by mmcjiyodan | 2009-09-14 12:03  

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