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西郷隆盛と大久保利通の幼馴染説は誤報

薩摩・島津藩から頭角を現した西郷吉之助・隆永、後の西郷武雄・隆盛(たかもり)は、明治維新の立役者の一人である。

千八百二十八年(文政十年)鹿児島城下の下加治屋町山之口馬場で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄四十七石余)の第一子として生まれ、十三歳で元服、十六歳で藩に出仕している。

西郷氏は藤原氏流の肥後(熊本県)菊池氏の分家、増水西郷氏の末裔を名乗っている。

肥後・菊池氏は建武の親政から南北朝並立期にかけて、一貫して後醍醐天皇(南朝方)に与力した有力豪族である。

そう、西郷吉之助は、まさしくあの「菊池千本槍(きくちせんぼんやり)」の血筋を受け継ぐ南朝の影人だったのである。

西郷隆盛はしぶといのが身上である。

西郷が政局に関わり実力を発揮し始めたのは、沖永良部島の流罪から復帰し、千八百六十四年(元治元年)西郷三十六歳に起こったの禁門の変以降の事である。

何度も遠島(流刑)と言う目に遭いながら、あたかも後醍醐帝の怨念にでも後押しされるかのごとく不死鳥の様によみがえり、薩摩藩をリードして行く。

確かに彼に相応の資質があったのだろうが、長州藩がかなり孤軍奮闘した後で薩摩藩が倒幕に加わった事など「あらゆる条件が揃う」と言う見えない幸運にも恵まれている。

運も実力の内ではあるが、隆盛の場合は、人格が周りを引き付けていたのである。

もうひとりの薩摩・島津藩出身維新の立役者は大久保利通である。

大久保家の家格は、御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士であった。

利通は千八百三十年(文政十三)に薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に生まれた後、幼少期に「西郷が住む加治屋町に引っ越した」として「幼少期に西郷隆盛と共に学問を学び親友となる」と言う記述が多いが、幼馴染説の辻褄合わせでその事実はない。

加治屋町郷中時代の西郷の記録には大久保に関する記述はなく、また大久保側にも加治屋町郷中時代の記録も幼少期に西郷と接触した記録もないのである。

例え引っ越しが事実としても、文政十年生まれの西郷隆盛と文政十三年生まれの大久保利通では、ほぼ三歳の年の差(二年十ヶ月)があり、事実西郷は十三歳で元服、十六歳で藩に出仕している。

凡そ十四歳位で元服する時代に幼馴染みとしての接点は互いの幼少期の時期的に見出せないのである。

生まれた場所も育った環境も大きく違い、大久保と西郷は青年期に成るまで「ろくな面識は無かった」と言う地元の研究者の成果が事実である。

大久保利通は千八百四十六年(弘化三年)から藩の記録所書役助として十六歳で出仕、薩摩藩内の出世に注力して藩内での力を着け、千八百六十二年(文久二年)利通が三十二歳に成って初めて島津久光を擁立して岩倉具視らと京都の政局に関わりを持ち始めている。

つまり大久保と西郷の間柄は、たまたま激動の時期に薩摩藩に二人の秀才が同時に現れ、途中から倒幕の志を同じくして協力し合うように成っただけの事だった。

大久保と西郷は、幕末の動乱期に同じ藩に在して同じ志であったから倒幕の為に活躍する様になって力を合わせた盟友には違いないが、「竹馬の友」は酷い誤報である。

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by mmcjiyodan | 2009-09-29 13:47 | Comments(0)  

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