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信長の鉄甲船(てっこうせん)

織田信長の鉄甲船(てっこうせん)は、信長軍団に包囲された一向宗・石山本願寺を海上支援した村上水軍に手を焼いた結果、この補給ルートを打ち破る為に建造された。

鉄甲船(てっこうせん)は安宅船(あたけぶね)に鉄の装甲を施したもので、安宅船(あたけぶね)は室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船の一種別である。

千五百七十三年、織田信長は琵琶湖周囲を全て自領として内海となった琵琶湖に、長さ三十間(約55m)、百挺立ての大型・安宅船(あたけぶね)を建造した事が知られる。

木造の安宅船(あたけぶね)でも巨体で重厚な武装を施している為速度は出ないが、戦闘時には数十人の漕ぎ手に依って推進される事から小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組む事が出来た。

その二年後、信長は京に近い琵琶湖に面した安土の山稜の地に、居城・安土城を築城し始めている。

信長が鉄甲船(てっこうせん)のアイデア実現を命じたのは安土城が完成する一年前の千五百七十八年当時で、折からの一向宗の本拠地・大阪・石山本願寺攻めで毛利氏村上水軍雑賀衆の水軍に悩まされていた信長は、配下の水軍を率いる伊勢の部将・九鬼嘉隆に命じて伊勢で六艘の鉄甲安宅船を建造させた。

「鉄は浮かばない」と言う当時の常識に囚われない天才・信長の面目躍如であるが、鉄の装甲は当時の軍船としては世界的に見てもまだ珍しかった。

この鉄甲大安宅船を実見した宣教師・ルイス・フロイスの書き残した証言によれば、各船は「前面と左右に一門づつ三門の大砲と無数の大鉄砲で装備していた」と言われ、大阪湾に回航されて村上水軍や雑賀衆の水軍との戦いに活躍する。

鉄張り堅牢で充分に戦闘に優位な信長の鉄甲船(てっこうせん)は、当時最強と謳われた村上水軍を打ち破り、大阪湾の制海権を抑えて石山本願寺の補給路を断って顕如(れんにょ)上人に、石山本願寺引き渡し調停に同意させている。

その信長の鉄甲船(てっこうせん)の噂を聞いて書き残した興福寺の僧侶の記録「多聞院日記」によれば、その規模は横七間(幅約12.6m)、竪十二~三間(長さ約24m)であった。

これが有名な信長の「鉄甲船」で、「多聞院日記の通りだ」とすれば全長が寸胴(ずんどう・短い)過ぎる為、「実際には二十数間~三十間(約55m)ほどの規模であった」と考えられている。

尚、この戦功で塩飽水軍(しわくすいぐん)が、織田信長の時代には朱印状を与えられ、巧みな航海術を駆使して活発な交易を行い、島内に莫大な富を蓄積して行く。

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by mmcjiyodan | 2009-10-13 14:17  

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