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島津義弘(しまづよしひろ)

安土桃山末期、薩摩・大隅・日向三ヵ国の島津家国主は兄の島津義久(しまづよしひさ)だったが、関が原合戦当時の島津義弘(しまづよしひろ)は実質的な差配者だった。

戦国期の島津氏は豊後の大友氏をほぼ壊滅させる所まで圧し、一時は筑前・豊前を除く九州全域を制圧したしたのだが、千五百八十七年(天正十五)の羽柴秀吉に拠る九州征伐で、圧倒的物量を持って侵攻して来た秀吉の軍勢に抗し得ずに降伏する。

義弘は九州征伐の敗戦処理で大隅一国を安堵され、薩摩安堵の兄・義久と同格の大名に処された。

豊臣政権に臣従したのちは島津氏存続の為に忠勤に励んだ義弘だったが、豊臣政権に反感を持つ兄・義久や家臣団との間に摩擦を起こし、その統制に苦慮している。

五年後の文禄の役に島津義弘は出陣して小西行長宇喜多秀家らと共に侵攻、晋州城を陥落させるなどの活躍を見せたが、乱れた家中を統制する為に召還され、薩摩・大隅・日向諸県郡のうち太閤蔵入地分などを除く五十五万九千石余が義弘の名義で与えられて島津家の実質的な差配者と成っていた。

その後太閤・豊臣秀吉が病死して徳川家康石田三成が反目して天下分け目の合戦が始まる。

千六百年(慶長五年)に起こった関ヶ原の合戦に際しては、当初は徳川家康に与して家康らが会津征伐に出征している間の留守居役として兵・八千にて伏見城の守備に当たる事になっていた。

しかし石田三成らが蜂起すると家康の臣・伏見城将の鳥居元忠は島津義弘の入城を拒否、義弘は石田三成の勢力圏に取り残された形となり、止む無く西軍に属する事に成った。

その後、島津義弘は伏見城の攻撃に参加、これを陥落させた。

止む無く西軍に属した義弘だったが、元々親徳川だった義弘は関ヶ原の本戦では合戦が始まっても西軍諸将からの再三の出馬要請にも応じず、一兵も動かす事もなく戦況を見守り、西軍の敗戦が決定的になると「座禅陣」と呼ばれる捨て身の中央突破を敢行、大打撃を受けながらも堺に辿り着き海路領国薩摩に帰国して、東軍に恭順の意を現わして向島(桜島)に蟄居した。

その後、井伊直政本多正信に拠る徳川家康への取り成しにより、島津義弘は赦免されている。

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by mmcjiyodan | 2009-10-15 19:51  

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