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長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・前編

長宗我部氏の本姓は秦の始皇帝を祖とする「秦河勝(はたのかわかつ)」の血筋と伝わる秦氏である。

土佐は伊豆半島から移って来た賀茂系の伊豆神社が多い所であるから、この秦氏の存在は符合する。

「土佐国式社考」で伊豆田神社の伝承を著した谷重遠(秦山)は岡豊八幡の神職の三男として生まれたが、土佐・岡豊は長宗我部氏の本拠地であり、長宗我部元親の忠臣・谷忠澄(たにただすみ)は「元は土佐国の神官であったが、長宗我部元親に見出されて家臣となり、主に外交方面で活躍した」とされる所から、谷忠澄(たにただすみ)の末裔が江戸末期の学者・谷重遠(秦山)だろうと推測される。

余談だが、明治維新の折にこの谷家の血脈から西南戦争時の熊本鎮台司令長官として西郷軍から熊本城を死守した名将・谷干城(たにたてき)が現れるのは凡そ三百年近い時の流れの後の事である。

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の生まれは、織田信長より五歳遅い千五百三十九年(天文八年)で、長宗我部氏第十九代当主で土佐の国人領主・長宗我部国親の長男として岡豊城で生まれる。

長宗我部元親の初陣は遅く、千五百六十年(永禄三年)の織田信長が今川義元桶狭間の戦いで破った二日後、元親・二十二歳の時に土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いに於いて初陣、「自ら槍を持って突撃する」と言う勇猛さを見せたが、翌月父の国親が急死した為家督を相続して第二十代当主となる。

二年後の千五百六十二年(永禄五年)に元親は土佐国司で幡田郡中村城を中心に影響力を持ち中村御所と呼ばれていた公家大名一条氏と同盟し、再び朝倉城攻めを行う。

千五百六十三年(永禄五年)、元親は母が美濃・斎藤氏の娘だった縁で、斎藤氏から正室(石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹)を迎える。

五年後の千五百六十八年(永禄十一年)に元親は宿敵の本山氏、翌年には東土佐の安芸郡を支配する安芸国虎を八流の戦いで滅ぼした。

千五百七十一年(元亀二年)に成ると、元親は一条氏の家臣・津野氏を滅ぼして三男の親忠を養子として送り込み、三年後に一条氏の当主一条兼定を追放して土佐をほぼ制圧に漕ぎ着けている。

元親は土佐統一後、その勢力を広める為に中央で統一事業「天下布武」を進めていた織田信長と同盟を結び、畿内から阿波・讃岐に掛けて勢力を持つ三好氏の阿波や讃岐、そして伊予へ侵攻して行く。

やがて三好氏が織田信長に敗れて衰退し、讃岐(さぬきの)の十河存保(そごうまさやす)や阿波の三好康長ら三好氏の生き残りによる抵抗が在ったが阿波・讃岐方面への侵攻が進んで千五百七十八年(天正六年)には次男の親和を讃岐の有力豪族・香川氏の養子として送り込み、二年後には阿波・讃岐両国をほぼ制圧した。

長宗我部元親が阿波・讃岐両国をほぼ制圧した千五百八十年(天正八年)信長は元親の四国統一を良しとせず、土佐と阿波の所領安堵のみを認めて臣従するよう迫るが元親がこれを拒絶した為、信長の助力を得た十河存保らの反攻を受けるなど信長と敵対関係になり、千五百八十二年(天正十年)には信長の三男・神戸信孝を総大将とした四国征伐軍が編成されるなどの危機が迫った。

そこに明智光秀が信長を急襲した本能寺の変が起こり、信長の自刃で信孝は征伐軍を解体して撤退し、明智討伐に向かったので元親は危機を脱した。

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・後編】に続く。
伊予戦国三武将・宇都宮氏、河野氏、西園寺氏】に続く。

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2009-11-01 01:39 | Comments(0)  

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