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秀吉の四国攻め

小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いを乗り越え、徳川家康を臣従させた羽柴秀吉には次の仕事が待っていた。

織田信長の後継者に納まったとは言え、羽柴秀吉は未だ中央を制しただけである。

群雄割拠の戦国末期、豊臣政権が確立する直前の日本列島には夫々の地に下克上を勝ち抜いた群雄達が、覇を唱えて夫々に広大な支配地を押さえて君臨して居た。

早い時期に下克上で地盤を固めた先祖・伊勢新九郎盛時(北条早雲)からの世襲の関東・北条氏以外、ほとんどは自分の代で切り取ったもので、何も考えない者にこの位置は在り得ない。

つまり知力と武力を兼ね備えた勝ち残り組みが、秀吉の前に立ちはだかっていたのだ。

東北に覇を唱えた伊達政宗、広大な関東を押さえた北条氏、上越の最強軍団・上杉景勝、四国をほぼ手中にしつつ在った長宗我部元親、中国地方の覇を唱えた毛利輝元、北部九州を抑えながら南部九州の島津義弘に制圧されかかっている大友宗麟など、それらの整理が信長が遣り残した「天下布武」の仕上げの仕事だった。

中国地方の毛利輝元は天下の情勢を様子見をしていたが、千五百八十三年(天正十一年)の賤ヶ岳の戦いの後には人質を送って秀吉に臣従した。

その後起こった四国征伐や九州征伐にも輝元は先鋒として参加して武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した結果、秀吉より周防・長門・安芸・石見・出雲・備後などの所領を安堵されている。


秀吉は天下統一に際しての軍事行動に度々背後を四国の長宗我部氏に脅かされた為、四国出兵を考えるようになる。

秀吉・長宗我部元親とも当初は交渉による和解を模索したが、領土配分を巡る対立を解消できず、交渉は決裂した。

交渉決裂により、秀吉は本能寺の変によって中断された千五百八十一年(天正九年)から千五百八十二年(天正十年)にかけての織田信長による四国進出の仕上げを計画する。


千五百八十五年(天正十三年)、天下統一に避けては通れ無い秀吉の勝ち残り組みの一家・四国の覇者・長宗我部氏に対する四国攻めが始まる。

羽柴秀吉は天下の覇者となるべく四国への出陣を決定し、淡路から阿波・備前から讃岐・安芸から伊予の三方向から弟の羽柴秀長を総大将、副将を甥の羽柴秀次と定め四国への進軍を命じた。

長宗我部方兵力は四万に対し、関白に就任する力を着けた秀吉方の兵力は十二万の大軍に及んだ。

讃岐・阿波で次々に秀吉軍の進撃を許し谷忠澄や白地城の重臣達も長宗我部元親に降伏を進言した為、蜂須賀正勝との交渉により元親は降伏し、長宗我部氏は土佐一国を安堵され豊臣政権に繰り込まれ、その他の三ヵ国は没収された。

この羽柴秀吉の天下人を確実にさせた一連の四国攻め・九州征伐・小田原平定、実は作戦参謀役の弟・羽柴秀長が「軍師として発揮した力は大きい」と言われている。

千五百八十五年(天正十三年)【秀吉の四国攻め】この頁
千五百八十七年(天正十五年)【秀吉の九州征伐
千五百九十年 (天正十八年)【秀吉の小田原平定

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by mmcjiyodan | 2009-11-18 00:50 | Comments(0)  

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