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土肥氏・土肥次郎実平(どひじろうさねひら)

土肥氏は、相模国土肥郷(神奈川県足柄下郡湯河原町)に起こった氏族で、桓武平氏平良文(たいらのよしふみ)流中村宗平の次男・中村実平(土肥次郎と号した)が土肥郷を分領して土肥氏・土肥次郎実平を名乗ったのが始まりである。

湯河原の郷士・土肥次郎実平(どひじろうさねひら/土肥実平・どいさねひら)は、父・中村宗平や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部に於いて有力な武士団を形成していた。

源頼朝伊豆の国(いずのくに)の三島で挙兵した時、土肥次郎実平は一子・小早川弥太郎遠平と伴に中村一族を率いて頼朝の下に馳せ参じ、石橋山の合戦に敗れた頼朝を守って最後まで付き従い再起を図る安房にも同行して鎌倉幕府創立に目覚しい功績を挙げる。

その功績の為に土肥氏は鎌倉御家人の中でも地位が高く、土肥郷に北に隣接する早川荘をも支配下に置くなど勢力を伸ばした。

実平の嫡男・小早川遠平も椙山までは共に居たが、伊豆山権現に逃れていた北条政子の元に使者として訪れ、頼朝が安房へ逃れた事を伝えている。

土肥実平は、その後の平家追討を掲げた治承・寿永の乱では和田義盛と共に頼朝代官である源範頼源義経の西国遠征軍の奉行として吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられ、平家追討に功を挙げ挙げる。

鎌倉幕府成立後も、土肥実平は中央で有力な御家人として勤めつつ吉備三国の惣追捕使(守護)に留まり鎌倉下の中国地区の抑えの要を任じている。

実平の没年は不明なるも、「吾妻鏡」に於いては千百十九年頃の記述を最後に歴史の資料から姿を消している。

時が移り、千百九十九年(建久十年)の将軍・源頼朝の死去の後に一連の北条氏に拠る有力御家人の粛清が始まり、千二百十三年(建保元年)に和田合戦が勃発した時、小早川(土肥)惟平(遠平の子/実平の孫)が同族の土屋氏と伴に和田氏に与して戦った。

和田合戦は和田氏側の敗北に終わり、その戦いで惟平の二人の息子がこの合戦で討ち死にし、惟平も北条氏に捕縛されて斬首されるも、老いた遠平が辛うじて本領を維持するが土肥氏は次第に衰退して行った。

その本家衰退の一方で、小早川遠平の養子・景平は安芸国沼田荘・地頭職を養父から譲られていたが、彼は安芸に下向して戦国期頃から表舞台に登場する毛利両川体制として有力郷士から戦国大名となる安芸・小早川氏の祖となる。

その後、実平の子孫・土肥実綱が頭角を現して鎌倉将軍・九条頼嗣、執権の北条時頼、北条時宗に仕えて活躍し、土肥氏を再度歴史の表舞台に引き上げた。

この実綱の弟・土肥頼平が越中・土肥氏(地頭職として越中へ入り在地領主化)の祖となるのである。

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by mmcjiyodan | 2009-12-09 02:09  

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