和田合戦(わだがっせん)

北条氏に拠る一連の鎌倉有力御家人・粛清劇の最後を飾ったのが、和田合戦(わだがっせん)である。

和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の千二百十三年(建暦三年)に鎌倉幕府内で起こった有力御家人・和田義盛の反乱だった。

和田義盛(わだよしもり)は、源頼朝蜂起の際、本拠・衣笠城で討ち死にした三浦義明の孫にあたる平家三浦流の武将で、平安時代末期から鎌倉時代初期の鎌倉幕府の有力御家人として頼朝の坂東(関東)制圧に助力し、初代侍所別当を任じた。

三浦氏の一族として源頼朝の挙兵に参加し首尾良く頼朝が(関東)制圧に成功すると、鎌倉に設置された頼朝の初期武家政権の初代侍所別当に任じられる。

和田義盛は、その後平家追討を掲げた治承・寿永の乱では頼朝の代官として平家追悼軍の全軍の指揮を任された実弟・源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り平家の背後を遮断して武功を立てる。

また義盛は、平家滅亡後の奥州合戦にも従軍して武功を立てている。

千百九十九年(建久十年)の将軍・源頼朝の死去後、幕府では御家人間の争いが次々と続き、有力御家人の梶原景時比企能員(ひきよしかず)畠山重忠らが滅ぼされている。

千二百三年に成ると二代将軍・頼家が幽閉された後に暗殺され、北条時政義時父子に拠って頼朝の次男・実朝(さねとも)が三代将軍に擁立され、執権と成った北条氏が幕府の実権を握りつつ在った。

梶原景時の変での景時弾劾追放で和田義盛は中心的な役割を果たし、その後の比企能員の変畠山重忠の乱と言った一連の御家人の乱でも北条氏に与していた。

しかし、二代執権・北条義時の度重なる挑発を受けて挙兵に追い込まれ、横山党や同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をするも、土壇場で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃し鎌倉で市街戦を展開する。

この和田合戦が勃発した時、土肥実平の孫・小早川(土肥)惟平(遠平の子)が同族の土屋氏と伴に和田氏に与して戦っている。

和田義盛は幕府軍を相手に二日間に渡って鎌倉で市街戦を展開するが、将軍・実朝を擁して兵力に勝る幕府軍が和田方を圧倒し、義盛は力尽き敗れて討ち死にと成り和田一族は滅亡した。

この合戦の勝利により、北条氏の執権体制は拠り強固なものと成っている。

和田合戦は和田氏側の敗北に終わり、その戦いで惟平の二人の息子がこの合戦で討ち死にし、惟平も北条氏に捕縛されて斬首され、残された老齢の小早川(土肥)遠平が永らえて辛うじて本領を維持するに到っている。

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by mmcjiyodan | 2009-12-11 03:56 | Comments(0)  

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