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織田信行(おだのぶゆき/信勝)

織田信長の同母弟として生まれた織田信行(おだのぶゆき/信勝)は、尾張・末森城を居城として母・土田御前に溺愛されていた。

その母・土田御前にそそのかされたのか、父・織田信秀の葬儀に於ける兄・信長の振る舞いを切欠に、織田信行(信勝)が代々の当主が名乗って来た弾正忠(だんじょうちゅう)の官途(かんと)を信長を差し置いて勝手に名乗るようになり織田家中で信長の唯一の対抗者と成って行く。

そんな不穏な空気が流れる中、両者の実弟・秀孝(織田信秀の八男説・九男説有り)が、領内の松川(現庄内川)の渡し付近で叔父・織田信次の家臣・洲賀才蔵に誤殺される事件が起きる。

それを聞いた信行(信勝)は激怒し、すぐさま手勢を率いて叔父・織田信次の居城・守山城に攻め寄せ城下を焼き払ってしまう。

これに対し兄・信長は「単騎で行動し、無防備だった秀孝の方にも非がある」として信行(信勝)の振る舞いを叱責した。

しかしそれが、血統至上主義に凝り固まった常識派ばかりの織田家の家臣達は、身内の血縁を尊重した信行(信勝)の気持ちに拠り当主としての資質が在ると見て期待を寄せ、織田家中で兄・信長の人気を上回る結果となった。

そして林秀貞、林通具、柴田勝家らを味方に着けた信行(信勝)が、兄・信長の支援者・斎藤道三(義父/信長正室・帰蝶の父)が嫡男義龍との戦に敗れて死去したタイミングで兄・信長に対して挙兵しする。

信行(信勝)は兄・信長の蔵入地・篠木三郷(現春日井市)を横領しようとしたのだが稲生の戦い(いのうのたたかい)で柴田勝家が敗れ、次いで林通具(はやしみちとも)が討死ししてしまう。

この織田信行(おだのぶゆき/信勝)の行動の背景には、母・土田御前の溺愛と体制が代われば新しい勢力が台頭する事を恐れた守旧派家臣団の既得権益への思惑が在ったのではないだろうか?

敗れた信行(信勝)は本拠地の末森城に籠城、信長・信行(信勝)両者の生母の土田御前の取りなしにより林秀貞、柴田勝家共々赦免された。

しかし信行(信勝)は千五百五十八年(永禄元年)、再び母・土田御前にそそのかされて兄・信長の謀殺を企て、柴田勝家に通報され終(つい)に信長に誅殺される。

家督相続の混乱終結の為に信勝(信行)を清洲城へ呼び寄せ謀殺した時には、、黒母衣衆の筆頭を務める河尻秀隆(かわじりひでたか)が信勝(信行)の殺害を実行した。

織田信行(おだのぶゆき/信勝)に対する「素直で良い子」の評価は、親や周囲が「扱い易いだけ」で、実は逞(たくま)しさには欠ける存在である。

つまり扱い易い存在は、使用人的には優秀であるが棟梁としては頼りない、そこを親は多分に勘違いして育ててしまう事が多い。

近頃流行の「草食系男子」は、母親の発言が強くなった「素直で良い子式子育て」の影響かも知れない。

尚、信行(信勝)には妻・荒尾御前(春日刑部の娘)と高嶋局(和田備前守の娘)が居て、子には本能寺の変後に殺害された津田信澄や信長の子である織田信孝に仕えた織田信兼などが居り、いずれも幼かった為に助命されている。


弟・織田信行(信勝)は自刃させたが、その子・坊丸(幼名)は、土田御前(信長と信行の生母)の助命嘆願もあって信長は助命する。

坊丸(幼名)は、信長の命令により柴田勝家(しばたかついえ)の許で養育される事になる。

勝家(かついえ)は、信行(信勝)が最初の謀反の企てを兄に起こした時は信行(信勝)側に付いた事もあり、土田御前も信頼していた。

この信行(信勝)の子が、長じて織田家武将・津田信澄(つだのぶすみ)となる。

信長の、母に愛されなかった不幸(一)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2009-12-17 01:11 | Comments(0)  

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