於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)
この於大の方(おだいのかた)が、戦国の女性として数奇な運命を辿って行く。
於大の父・水野忠政は、所領の緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた徳川家康の祖父にあたる松平清康の所望(求め)に応じて正室・於富の方を離縁してまで清康の後妻に嫁がせた。
それでも松平清康亡き跡の両家の絆には足りず、水野忠政は清康没後に松平氏とさらに友好関係を深めようと考えて清康の後を継いだ松平広忠に娘の於大を嫁がせた。
於富は水野忠政の正室から離縁、松平清康の後室に成っていて松平広忠の義母にあたるが、於富と於大が実の母娘で在っても広忠とは義理の関係で、義母の娘を娶っても問題はない。
於大は松平広忠に嫁いだ翌年(天文十一年師走)に、広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を生む。
水野忠政健在の間は、松平家と水野家の間は順調だった。
しかし忠政の死後に水野家を継いだ於大の兄・水野信元が松平家を属国化していた駿河・今川家と絶縁して尾張・織田家に従ってしまう。
その為於大は、今川家との関係を慮(おもんばか)った広忠により離縁され、実家・水野家の・三河国刈谷城(刈谷市)に返される。
広忠に離縁された於大はその後、兄・水野信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。
於大の再婚相手・久松俊勝は元々水野家の女性を妻に迎えていたが、その妻の死後に久松家が水野家と松平家の間でどちらに付くのか帰趨が定まらず、松平氏との対抗上水野家と久松家の関係強化が理由と考えられる。
於大は、久松俊勝との間には三男三女をもうけている。
桶狭間の戦いの後、今川家から自立し織田家と同盟した松平元康(家康)は於大を母として迎え、久松俊勝と於大の三人の息子に松平姓(久松・松平氏)を与えて家臣とした。
徳川家康生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏は何故か織田信長に寝返り、於大の方は夫・松平広忠(まつだいらひろただ)に離縁されて刈谷の水野家に戻っている。
於大はその後、兄・水野信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。
勘違いして貰っては困るが、久松俊勝婦人と言っても、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、於大の方(おだいのかた)の名乗りはやはり水野太方(みずのたいほう)である。
この水野氏の突然の織田方寝返りの動行と、その後の水野家及び於大の方(おだいのかた)に対する今川独立後の松平元康(家康)の奇妙な割り切りも気に成る所で、或いは双子の片割れの裏・竹千代の存在が在っての水野氏織田方寝返りの可能性を感じる。
で在れば、謀略渦巻く戦国の世である。
松平広忠と今川家の表・竹千代ラインと於大の方と織田家の裏・竹千代ラインが三河をめぐる勢力争いの構図として筋書きが完成していたのかも知れない。
於大の方は夫・久松俊勝の死後、剃髪して晩年は伝通院と称し関ヶ原の戦いの後に家康の滞在する京都伏見城で死去した。
於大の方は、子の徳川家康の正室・築山殿(関口瀬名)との嫁姑の確執から築山殿を嫌って岡崎城に入る事を許さず城外に止め置いたと伝えられるが、別の理由として今川家人質時代の築山殿の夫・松平元康と三河で独立した徳川家康が実は双子の別人だった為で、於大の方と築山殿との確執は「世間を欺く創作だった」とする説も存在する。
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