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鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)その一

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)は江戸幕府・徳川家の命運を決め、その後の幕藩体制の清算的な意味合いを持つ戊辰戦争の緒戦となった戦闘である。

坂本龍馬近江屋で暗殺された直後の慶応三年の末、将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)大政奉還を受けて薩摩藩大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで王政復古の大号令が発せられた。

王政復古の大号令が発せられ、徳川家親族の新政府議定の松平春嶽(しゅんがく/慶永・よしなが)と尾張藩主・徳川慶勝(とくがわ/よしかつ・松平容保とは兄弟)が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告し前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられる。

慶喜は謹んで受けながらもこの通告を受けて旧幕府旗本や会津藩の過激勢力が暴走しそうになった為、使者として慶喜のもとへ派遣された松平春嶽らに「配下の気持ちが落ち着くまでは不可能」と言う返答をおこなった。

前将軍・徳川慶喜は、軽挙妄動を慎むように命じつつ政府に恭順の意思を示す為に京都の二条城を出て大坂城へ退去している。

松平春嶽はこれを見て、慶喜は「天地に誓って辞官と納地の返納を実行するだろう」と言う見通しを総裁の有栖川宮熾仁親王に報告するも大坂城に入った後に慶喜からの連絡が途絶える。

新政府に於いて、大坂城入城後の徳川慶喜の態度に関して会議が行われ、参与の大久保利通は慶喜の裏切りと主張し、「ただちに領地返上を求めるべきだ」と主張したが、松平春嶽は「旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしている」と睨み、「性急強硬な命令では説得が不可能である」として「今は徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定すると言う曖昧な命令に留めるべき」と主張した。

岩倉卿(具視)も松平春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断した為、この命令が出される事に決し、再度松平春嶽と徳川慶勝が使者に立てられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れた。

所が、薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行い庄内藩の江戸薩摩藩邸の焼討事件を誘発すると、慶喜の周囲ではさらに「討薩」を望む声が高まり、前将軍・徳川慶喜は薩摩征伐を名目に事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始し、旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。

慶喜の旧幕軍出兵の報告を受けて政府では緊急会議が招集される。

政府参与の大久保利通は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、政府議定の松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張し会議は紛糾する。

この紛糾した会議は、政府議定・岩倉具視が徳川征討に賛成した事で大勢は旧幕軍征討に決し、在京政府軍に迎撃開戦の準備を通達した。

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)その二】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-01-16 15:06  

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