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池田屋事件(いけだやじけん)

池田屋事件(いけだやじけん)は、千八百六十四年(元治元年)の夏に当時の政府側である幕府方(佐幕派)の京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)配下の治安維持組織・新撰組(しんせんぐみ)尊皇攘夷思想や勤皇思想を持つ反政府派浪士が潜伏する京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋を襲撃した事件である。

この池田屋事件で、久坂玄瑞高杉晋作と共に松陰門下の三秀と称される吉田稔麿(よしだとしまろ)が命を落としている。

反政府派のテロにしても政府の弾圧にしても、「良かれ」としてやってもその結果は行動を起こした側の利に必ずしも適う結果になるとは限らない。

池田屋事件の場合は、多くの尊攘派浪士を失い明治維新が一年遅れたとも、尊攘派を刺激してしまい維新を早めてしまったとも言われて意見が分かれる所だが、この武力行使が幕府方(佐幕派)の為に効力を発揮したのは「僅かな期間に過ぎない」と思われる。

昔から「藪を突いて蛇が出る」と言う諺(ことわざ)もあり、下手な弾圧は次の怒りと団結を生むものである。

政権側の幕府方(佐幕派)にしてみれば、この弾圧はいっそう尊皇攘夷思想や勤皇思想に強い火を着けた結果に成った。

但し、士分に伸し上りたい一心の新撰組に限定すれば、この事件で大いに名を売ってその存在を天下に誇示した事は成果では在った。

幕末期の京都は、帝をめぐって政局の中心地となり、尊攘派の長州藩は会津藩薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。

尊皇攘夷や勤皇等の思想を持つ諸藩の浪士が勢力挽回を試みて潜伏して活動しており、京都守護職・松平容保は新撰組を用いて市内の警備や探索を行わせていた。

千八百六十四年(元治元年)の初夏の頃、新撰組・諸士調役兼監察の山崎烝・島田魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)の存在を突き止め、武器や長州藩との書簡等が発見された為に古高を捕らえて会津藩に報告をする。

枡屋の古高を捕らえた新選組は土方歳三の拷問により古高を自白させるに到り、その計画は祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ちその混乱に乗じて挙兵、中川宮朝彦親王(後の久邇宮朝彦親王)を幽閉し、一橋慶喜(徳川慶喜)・会津の松平容保らを暗殺せしめ、孝明天皇を長州へ連れ去ると言うもので在った。

そうした中、新撰組は更なる山崎烝・島田魁らの探索に於いて長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕を受けて対策を協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止める。

取り締まりを決意した新撰組は、会津藩・桑名藩等に応援を要請するが会津らの動きが遅く時刻に成っても動かなかった為、事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切り、近藤隊十名と土方歳三隊二十四名、総勢三十四名を二手に分け捜索を開始する。

出動した新撰組は、八坂神社から縄手通を土方隊、三条大橋を渡って木屋町通を近藤隊が探索し、亥の刻(二十二時頃)過ぎ、捜索の末に近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘過激派志士を発見した。

近藤勇は近藤隊十名の内六名に屋外を固めさせ、近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の四名で尊攘過激派二十数名の中に斬り込み、真夜中の戦闘となる。

襲撃を受けた熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)ら志士達は応戦しつつ池田屋からの脱出を図るも適わず宮部は自刃、桂小五郎(後の木戸孝允)は池田屋より屋根を伝い逃れ対馬屋敷へ逃げ帰っている。

切り込んだ四名の内、沖田は戦闘中に喀血(とけつ・肺結核)し、藤堂は汗で鉢金がずれた所に太刀を浴びせられ額を斬られ血液が目に入り戦線離脱し、新撰組側は一時近藤・永倉の二名となるが、別方面から駆け着けた土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、九名討ち取り四名捕縛の戦果を上げる。

土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士は裏口から脱出しようと試み、裏口を守っていた新撰組・安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達の所に必死の斬り込みをかけて逃亡するも、奥沢は死亡、望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃、深手を負った安藤・新田も一ヶ月後に死亡している。

会津藩・桑名藩の応援は戦闘後に到着したが、土方歳三は手柄を横取りされぬようにその藩兵を一歩たりとも近づけさせなかったが、この戦闘で逃走した数名の尊攘過激派は、続く翌朝の新撰組の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し二十余名を捕縛した。

翌日の正午、新選組は壬生村の屯所に帰還の途に着くが、騒ぎを聞き付けた見物人で沿道は溢れていた。

正直、一般の庶民にして見れば尊攘派と佐幕派の争いなど関心が無く、争い事は迷惑な話で早く平和に収まれば勝つのはどちらでも良い。

そんな中で尊攘派浪士の御所焼き討ち、京の町に火を着けるクーデター計画など、手前勝手な反政府テロ以外の何物でもない。

この池田屋事件で御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功したとして新選組の名は天下に轟き、尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らの実力者が戦死し大打撃を受けるも、長州藩はこの事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し禁門の変(きんもんのへん)を引き起こす。

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by mmcjiyodan | 2010-01-19 01:06  

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