修験武術(しゅげんぶじゅつ)

修験者(山伏)の表の顔は、言わば官製メディアとして「天孫降(光)臨伝説」を民に周知徹底させる為に、全国津々浦々に指導・布教した組織が陰陽修験の修験導師達だった。

同時に修験者(山伏)の裏の顔は秘密軍事警察組織兼諜報工作組織であるから武術能力が要求されたが、その組織の性質から西洋式の団体戦拠りも単独または少人数の武術が基本と成って発達した。

大王(おおきみ/天皇)の「神の威光で統治する」と言う呪術的発想の「統治理念」の為に表向き「陰陽修験の信仰組織」とした「秘密警察組織」と思われる賀茂氏の修験道行者頭・役小角(えんのおづぬ)とその配下の山伏達は、武装組織であるから杖術を基本として独特に工夫した山伏兵法を編み出ている。

この杖術が後に剣術・槍術・柔術・忍術(しのびじゅつ)へと分化発展して、各々の完成された武術に進化して行く事になる。

槍術、剣術などの古い流派は、いずれも「陰陽師に祖を発する」と言われ、京八流、関東七流などがある。

また、この「神の威光で統治する」と言う建前を基にした警察力欠如の環境が、平安時代以降に京八流や関東七流を必要とする各入植地の自衛農民団、もしくは自衛海運業者団としての武士団の発展を促し、各寺社も僧兵を整備した。

山河を修験山伏として移動する修験武術を発祥として発展した日本の武術には西洋や中国のように盾と剣を組み合わせるのではなく、盾を用いずに切り合う形式だった為に主として鎧兜(よろいかぶと)で防御する形式と成った。

大鎧一式を身に着けると相当に重量があり身動きに負担を伴い実戦には不向きだが、基本的に修験武術から発達した日本の武術には盾を使う概念が無く個人戦の集積型だった当時の戦ではこの重量がある防具で戦っても双方条件が同じだった。

やがて平氏源氏などの武門が成立して武士と言う身分が定着すると、修験武術から発展した武術がそのまま用いられた為に、織田信長が戦術を切り替えるまで「名乗り合ってから切り合う」と言う個人戦の集積型とも言うべき戦闘がスタンダードな形式として続けられていた。

陰陽師起源の詳しくは、小論【陰陽師=国家諜報機関説】を参照下さい。

関連記述
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by mmcjiyodan | 2010-01-29 04:12 | Comments(0)  

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