鎧(よろい/甲冑具足・かっちゅうぐそく)・兜(かぶと)

存在を確認されているもっとも古い甲冑は古墳時代のもので、古墳から発掘される金属製の挂甲(けいこう)、短甲(たんこう)とよばれる鎧、眉庇附兜(まびさしつきかぶと)、衝角附兜(しょうかくつきかぶと)と呼ばれる兜である。

山河を修験山伏として移動する修験武術を発祥として発展した日本の武術には西洋や中国のように盾と剣を組み合わせるのではなく、盾を用いずに切り合う形式だった為に主として鎧兜(よろいかぶと)で防御する形式と成った。

本式の鎧兜(よろいかぶと)は敵の攻撃から身を守る防具として、七百九十四年に桓武帝平安京(京都)に都を移した平安期の頃に上級の武士の間で始まり、源平の鎌倉期を経て後醍醐帝建武の新政(親政/けんむのしんせい)から南北朝並立期頃まで用いられ発達した武具である。

今も昔も技術の発達には戦の存在が切欠に成る事実が悩ましいが、桓武帝が本格的に東国(坂東)支配に乗り出し征夷を唱えて東北(奥州)蝦夷の征伐を始めた事が必要に迫られて武具の発達を促したのである。

鎧(よろい)は甲冑具足(かっちゅうぐそく)とも呼ばれて本格的な物は平安期に始まり、南北朝期頃まで用いられた物を大鎧と言い、大鎧は頭を覆う兜と肩、腕、手、胴を防御の為に覆う甲冑具足を総称する呼び名である。

まず、兜の上に立つ飾りは「脇立」、横に出ているものが「吹き返し」、頭の横後ろを守る蛇腹が「しころ」、顔を守るものが「面頬 (めんぽう)」、その下に付いている首を守る蛇腹が「垂れ」、兜の紐は「忍紐」と称する。

次に肩を被うものが「袖」、腕に被せるものが「篭手」、手の部分は「手甲」と呼び、胴の前板は「胸板」、胴の下の何枚かの蛇腹部分は「草摺(くさずり)」、その「草摺」の上に付けて股から腿を被うものを「はい楯」、脚を被うものを「脛当」と言う。

大鎧一式を身に着けると相当に重量があり身動きに負担を伴い実戦には不向きだが、基本的に修験武術から発達した日本の武術には盾を使う概念が無く個人戦の集積型だった当時の戦ではこの重量がある防具で戦っても双方条件が同じだった。

この大鎧は上級の武士が使用するもので、大鎧とは別に同時代に簡便な防具として雑兵や修験山伏が着用し、元は腹巻と呼ばれた胴丸と呼ぶ防具がある。

胴丸には始め袖は無かったが、鎌倉末期より大袖を付けて武将も着用するようになり大鎧は衰退する。

室町後期から戦国期には防禦率良く活動的なものを求めて当世具足と呼ばれる防具が開発され、大鎧や胴丸は使われなくなる。

関連記述
修験武術(しゅげんぶじゅつ)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2010-01-30 00:36 | Comments(0)  

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