山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)

明治維新の動乱期に影響力を発揮して四賢候の一人と並び称される山内容堂/豊信(やまうちようどう/とよしげ)は四国・土佐の国を領有する外様大名・土佐藩の十五代藩主で、世間に知られる容堂(ようどう)は隠居してからの号である。

四賢候の一人と並び称される山内容堂/豊信(やまうちようどう/とよしげ)であるが、土佐藩々主だった山内豊信(とよしげ/容堂)は勿論現体制擁護派で、本来は公武合体論者だった。

山内豊信(とよしげ/容堂)は、土佐藩連枝(分家)の山内南家(知行千五百石)当主・山内豊著(十二代藩主・山内豊資の弟)の長男として生まれた。

山内南家は連枝五家の中での序列が一番下で、本来なら豊信(とよしげ/容堂)に藩主の座が廻って来る事は無かった。

しかし十三代藩主・山内豊熈、その弟で十四代藩主・山内豊惇が藩主在任僅か十二日と言う短さでの急死し山内家は断絶の危機に瀕してしまう。

十四代藩主・山内豊惇には実弟(後の十六代藩主・山内豊範)が居たが僅か三歳で在った為、分家で当時二十二歳の豊信(とよしげ/容堂)が候補となり、豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実家に当たる薩摩藩などの後ろ盾により根回し宜しく老中首座で在った阿部正弘(あべまさひろ)に働きかけ、「十四代・豊惇は病気の為に隠居した」と言う形を採り藩主に就任した。

千八百五十三年(嘉永六年)、藩主の座に就いた山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)は、従来の門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループ「新おこぜ組(私塾少林塾師弟)」の中心人物・吉田東洋(少林塾主催)を起用し、東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じて家老を押しのける形で藩政改革を断行、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝悌らを起用する。

土佐藩主としての自分の産みの親でもある老中・阿部正弘と親しかった豊信(とよしげ/容堂)は、幕政改革を訴えていたが阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼(いいなおすけ)と将軍世継問題で真っ向から対立する。

十三代将軍・家定が病弱で嗣子が無かった為、土佐藩主・山内豊信、福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。

一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福を推し大老の地位を利用した安政の大獄で政敵を排除する。

この強行策で、結局直弼が推す慶福が十四代将軍・家茂となる事に決まり、豊信(とよしげ/容堂)はこれに憤慨し隠居願いを幕府に提出、前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲り、豊信(とよしげ/容堂)は隠居の身となった。

所がこの年十月、豊信(とよしげ/容堂)は斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。
その容堂謹慎中に、土佐藩でクーデターが起る。

桜田門外の変以降は全国的に尊皇攘夷が主流となり、土佐藩でも武市瑞山(たけちずいざん)を首領とする土佐勤王党が台頭し、容堂の股肱の臣である吉田東洋(よしだとうよう)と対立し遂に東洋を暗殺するに到り、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した。

幕政に口を出す山内容堂の思想は単純ではなく、公武合体派として藩内の勤皇志士を弾圧する一方で朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれと言う行動を取り幕末の政局に混乱をもたらしている。

京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としの為の朝廷軍事クーデター(八月十八日の政変)が強行され、これ以後佐幕派による粛清の猛威がしばらく復活し、山内容堂も謹慎を解かれて土佐に帰国してまたも藩政を掌握した。

帰国した容堂は隠居ながら最高権力者に返り咲き、まず東洋を暗殺した政敵・土佐勤王党の大弾圧に乗り出して党員を片っ端から捕縛・投獄する。

勤王党首領の瑞山は容堂に切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられ土佐勤王党は壊滅させられた。

土佐藩々政に復帰した前藩主・山内容堂だったが、容堂が知らない所で政局は大きな動きを見せ始めていた。

千八百六十六年(慶応二年)東洋暗殺の直前に脱藩していた坂本龍馬中岡慎太郎・土方久元ら土佐脱藩浪士達の仲介に拠って薩長同盟が成立し、時代が明治維新へと大きく動き出したのだ。

薩長同盟の翌月には、中岡慎太郎・坂本龍馬の仲介により京都に於いて薩摩の小松帯刀大久保利通西郷隆盛と土佐の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝弟・寺村左膳・間部栄三郎が会談し、幕府排除と王政復古の為の薩土同盟が成立し土佐藩全体が徐々に倒幕路線に近付いて行く。

山内容堂は幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた藩論を止める事も時代の流れに抗する事も出来なかった。

そんな折、土佐藩参政・後藤象二郎は坂本龍馬より幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案、及び「船中八策」を聞いていて自分の案として容堂に進言する。

容堂はこれを妙案と考え千八百六十七年(慶応三年)の秋、老中・板倉勝静らを通して十五代将軍・徳川慶喜に建白し、慶喜はこれを受け入れて朝廷に大政奉還した。

しかし容堂の慶喜に対する建白の思惑は列侯会議で、徳川宗家温存路線だったにも関わらず大政奉還後の明治政府樹立までの動きは、終始薩摩・長州勢に主導権を握られて討幕強行派のペースで進んだ。

山内容堂(やまうちようどう)は、小御所会議に於いて強行派の公家・岩倉具視、薩摩藩・大久保利通らと対立したが押し切られ、王政復古の大号令が発せられて戊辰戦争に到る事となった。

いずれにしても土佐山内家は藩祖・山内一豊(やまうちかつとよ)以来時流に乗るのはお家芸で、維新に乗った土佐藩は薩長土肥の一角を占め山内容堂(やまうちようどう)は維新の四賢候と並び称されるが、結局政府の意思決定からは実質的に排除されて晩年は放蕩三昧の荒れた生活を送って生涯を閉じている。

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by mmcjiyodan | 2010-02-02 02:13 | Comments(0)  

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