孝明天皇(こうめいてんのう)

幕末の混乱に拍車をかけたのは、攘夷(じょうい)の意思が強い時の天皇・孝明(こうめい)の存在だった。

孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷(じょうい)の意思は、人間の「左脳域と右脳域」の論理で言えば、「無意識脳」と言われる「右脳域の観念」であり、理性的意識能力系統を司るとされる「意識脳」の「左脳域の計算」などまったく無いものだった。

簡単に言えば、尊皇攘夷論者も孝明天皇(こうめいてんのう)も観念(異人嫌い)が優先して「左脳域の計算」の情況判断を無視した事で、薩英戦争(さつえいせんそう)下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)は主として「右脳域の観念」で始められ、戦をしてみて初めて「左脳域の計算」が働くようになり、尊皇攘夷論者から「攘夷」が消えて「倒幕」に変わる。

「右脳域の観念」は、「左脳と右脳の論理」で言えば「感情」だけの片側思考のバランスの悪いものであり、明治維新前の風潮は、は「間違いは改むるに如(し)かず」だった。

つまり「武士道の精神」と「天孫降臨伝説皇国史観)」は、維新政府の統治の為に政治利用されたに過ぎないのに、「感情」だけの片側思考のバランスの悪い主張をする者にその自覚は無い。

仁孝天皇の第四皇子に生まれた煕宮(ひろのみや)親王は、千八百四十年(天保十一年)に立太子を為し六年後の千八百四十六年(弘化三年)に父・仁孝天皇の崩御を受け、十五歳で践祚(せんそ/位を受け継ぐ)し孝明天皇(こうめいてんのう)として即位する。

即位から七年後、千八百五十三年(嘉永六年)の孝明天皇(こうめいてんのう)二十二歳の時、ペリーが来航して公家の学問所である学習院を創設するなど文化的な活動をしていた孝明天皇に転機が訪れる。

孝明天皇は外圧に危機感を持ち、政治への積極的な関与を強めて永年朝政を主導して来た前関白・鷹司政通の内覧職権を停止して落飾(仏門に入る)に追い込み、関白に任じた九条尚忠の内覧職権も停止(関白職は留任)するなどして朝廷に於ける自身の主導権確保を図っている。

外圧に対する開国の問題で、幕末期に於ける天皇及び朝廷の政治的地位は外見上は急速に高まって行き、孝明天皇自身も当初はこれに対応しようとしていた。

そうした追い風を受け孝明天皇は幕政に対する発言力を強め、大老・井伊直弼が諸外国と勅許を得ずに条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷勅命を下した。

これを受けて下関戦争薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が勃発した。

攘夷の意思が強い孝明天皇は、異母妹・和宮親子内親王を第十四代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させて公武合体を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望み、公武合体派の京都守護職・会津藩主・松平容保への信任は特に厚かった。

そうした孝明天皇の姿勢から、諸外国は攘夷運動の最大の要因が「孝明天皇の意志にある」と判断し艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求する。
言わば武力を誇示した脅しで、この事態に流石の孝明天皇も事の深刻さを悟って条約の勅許を出す事にする。

そうした幕末の政治混乱の中、幕府・一橋家・会津藩・桑名藩・薩摩藩長州藩などの諸藩や三条卿岩倉卿などの公家そして尊攘派志士達の権力を巡る争奪戦に巻き込まれて行くと、孝明天皇個人の権威は低下して次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは天皇に対する批判が噴出して行く。

千八百六十六年(慶応二年)孝明天皇は突然発病し、時代に翻弄されながら在位二十一年にして崩御する。

ご壮健であらせられた孝明天皇が数えの三十六歳の若さにしてあえなく崩御してしまった事から、直後にその死因に対する不審説が漏れ広がっている。

孝明天皇(こうめいてんのう)と攘夷論(じょういろん)・下関戦争と薩英戦争】に続く。
孝明天皇崩御の謎】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-02-03 01:46 | Comments(0)  

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