島津斉彬(しまづなりあきら)

幕末期に薩摩藩の富国強兵に成功し、西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた幕末の名君・島津斉彬(しまづなりあきら)は、薩摩藩十代藩主・島津斉興(しまづなりおき)の嫡男として生まれる。

本来なら順当に斉彬(なりあきら)が藩主を継ぐ筈だったが、祖父・第八代藩主・島津重豪(しげひで)の存在が斉彬(なりあきら)の家督相続を微妙にした。

それが、重豪(しげひで)の影響を受けた「斉彬(なりあきら)の学問好き」だと言うのだから評価とは判らないもので、父・斉興(なりおき)は洋学に興味を持った斉彬(なりあきら)が四十歳を過ぎてもまだ家督を譲らなかった。

祖父・第八代藩主・島津重豪(しげひで)は学問好きで公金を湯水のごとく費やし藩財政を困窮させた経緯があり、その重豪(しげひで)の学問好きに父・斉興(なりおき)は斉彬(なりあきら)を重ね合わせ警戒していたのだ。

斉彬(なりあきら)が周囲の目に蘭癖と映った事が皮肉にも薩摩藩を二分する抗争の原因の一つになったとされ、そうした藩内の空気も在り、家老・調所広郷(笑左衛門)や斉興(なりおき)の側室・お由羅の方らは、お由羅の子で斉彬(なりあきら)の異母弟に当たる島津久光の擁立を画策する。

斉彬(なりあきら)派側近は久光やお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏れて首謀者十三名は切腹、また連座した約五十名が遠島・謹慎に処せられた。

斉彬派の四名が必死で脱藩し、重豪(しげひで)の十三男で筑前福岡藩主・黒田長溥(くろだながひろ)に援助を求め、長溥の仲介で斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平春嶽(慶永)らが事態収拾に努めた。

この一連のお家騒動はお由羅騒動(あるいは高崎崩れ)と呼ばれ、幕府の命で斉興(なりおき)が隠居し、斉彬(なりあきら)が第十一代藩主に就任した。

斉彬(なりあきら)は、藩主に就任するや洋学の知識を生かせて藩の富国強兵に努め、洋式造船や反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興す。

また、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、西洋式帆船・いろは丸を完成させ、西洋式軍艦・昇平丸を建造し徳川幕府に献上している。

この時斉彬(なりあきら)は帆船用帆布を自製する為に木綿紡績事業を興し、「日の丸を日本船章にすべきだ」と献策し幕府に正規に採用させ、以後日の丸は日本の国旗となって行く。

斉彬(なりあきら)は、藩主就任以前から交流をもっていた福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂、水戸藩主・徳川斉昭、尾張藩主・徳川慶勝らと伴に幕政にも積極的に口を挟み、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。

特に斉彬(なりあきら)はアメリカのペリー艦隊来航(黒船来航)以来の難局を打開するには「公武合体・武備開国を於いて他にない」と強く主張した。

斉彬(なりあきら)は、折りしも大奥から依頼が在った将軍・家定の御台所の斡旋に今和泉島津家の姫・篤子(あつこ/篤姫/天璋院)を養女とし、近衛忠煕の養女に直した上で嫁がしている。

第十三代将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかった為、斉彬(なりあきら)と親しかった老中・阿部正弘(あべまさひろ)の死後、大老に就いた井伊直弼と斉彬(なりあきら)他四賢侯と前水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推し、将軍継嗣問題で真っ向から対立する。

この為薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)は、福井藩主・松平慶永(よしなが)、土佐藩主・山内容堂(ようどう)、宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)らと並んで幕末の四賢侯と称された。

しかし松平慶永(よしなが)は、後世に於いて「島津斉彬(しまづなりあきら)候は大名第一番の御方であり、自分はもちろんの事、水戸烈侯、山内容堂侯、鍋島直正侯なども及ばない」と評したと言われる。

紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した井伊直弼は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始し、結果徳川慶福(後の家茂)が第十四代将軍・徳川家茂となってしまう。

これに対し斉彬(なりあきら)は、藩兵五千を率いて抗議の為上洛する事を計画するも、鹿児島城下で出兵の為の練兵を観覧の最中に発病し、僅か一週間ほどで死去している。

島津斉彬(しまづなりあきら)死後の薩摩藩は、その遺言により藩主の座を争そった異腹の弟・久光の長男・島津忠義(茂久)が藩主を継いだ。

斉彬(なりあきら)は死の病床で藩の行く末を案じ、忠義に斉彬の長女・澄姫を嫁がす条件で仮養子とし、自らの四男・哲丸を後継者とするように言って哲丸と忠義(茂久)との相続争いを未然に防ぐ遺言を残している。

その後の薩摩藩は、久光の長男・島津忠義(茂久)が藩主を継いだ事で久光が藩主後見人として実質最高権力者と成り、幕末の動乱期の舵取りをして行く事になる。

尚、斉彬(なりあきら)が忠義(茂久)の次に後継指名していた哲丸は、ほどなく早世している。

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by mmcjiyodan | 2010-02-05 00:59 | Comments(0)  

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