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伊達宗城(だてむねなり)

幕末の四賢侯(ばくまつのしけんこう)の一人と称される伊達宗城(だてむねなり)は、数奇な運命を辿って宇和島伊達藩八代藩主に成った男である。

伊達宗城(だてむねなり)は、知行三千石の大身旗本・山口直勝の次男として江戸に生まれ幼名を亀三郎と称し、祖父・山口直清が宇和島藩五代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった人物だった血縁で九歳の時に宇和島藩主・伊達宗紀の参勤交代による在国に際し仮養子となる。

この山口亀三郎仮養子の時点では、継嗣以外の次男以下を血縁に拠る救済措置として便宜上仮養子としたもので、その後の山口亀三郎(宗城/むねなり)は一旦は宇和島藩家臣・伊達寿光の養子となって伊達亀三郎を名乗る。

所が、藩主・宗紀に中々嗣子となり得る男子に恵まれない。

そこで伊達亀三郎は十一歳で藩主・宗紀の五女・貞と婚約し、婿養子の形を採って養子となり伊達宗城(だてむねなり)を名乗るるが、貞は早世してしまい婚姻は為されないまま宗紀の隠居に伴い宗城(むねなり)は二十六歳で宇和島藩五代藩主に就任する。

藩主となった伊達宗城(だてむねなり)は藩の財政を立て直して力を着け、福井藩主・松平慶永(よしなが/春嶽)、土佐藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)とも交流を持ち「幕末の四賢侯」と称される。

所が、将軍継嗣問題で大老・井伊直弼と真っ向から対立し政争に敗れた宗城(むねなり)は、他の四賢侯・松平春嶽、山内容堂、島津斉彬、それに水戸藩主・徳川斉昭らとともに隠居謹慎を命じられた。

先代の宗紀は隠居後に実子の伊達宗徳を儲けており、隠居謹慎を命じられた宗城(むねなり)はその宗徳を養子として藩主の座を譲ったが、隠居の後も藩政に影響を与え続けた。

しかし桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺され、孝明天皇の崩御、十四代将軍・家茂の死と続いて四賢侯は復活し十五代将軍・慶喜が誕生する。

宗城(むねなり)は謹慎を許されて後は再び幕政に関与するようになり、島津斉彬の死去後に薩摩藩主と成った島津茂久の父親として薩摩藩の実権を握った島津久光とも交友関係を持ち、公武合体を推進した。

王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねたが元々宗城(むねなり)は心情守旧派で、戊辰戦争が始まると薩長の行動に抗議して新政府参謀を辞任している。

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by mmcjiyodan | 2010-02-07 02:12  

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