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幕末の四賢候(ばくまつのしけんこう)

幕末の四賢侯(ばくまつのしけんこう)は現代言う派閥仲間の様な存在で、幕末動乱期の幕政に連携して積極的に口を挟み存在感を誇示した大名達である。

ただしこの四賢侯(しけんこう)は後に付けられたもので、当時は本人達は勿論周囲もこの名称は使用してはいない。

幕末期に活躍した宇和島藩第八代藩主・伊達宗城(だてむねなり)、福井藩第十四代藩主・松平慶永(まつだいらよしなが/春嶽)、土佐藩第十四代藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の四人の大名を言う。

但し、千八百五十八年(安政五年)の斉彬(なりあきら)没後は薩摩藩十二代藩主・島津忠義の父・島津久光(しまづひさみつ)を四賢候に加える場合もある。

つまり四賢候は、斉彬(なりあきら)の病没と久光(ひさみつ)の登場でバトンタッチまたはプラスワンと言う形になるのだが、この四賢候の経歴を見てもらえば判るが血統はともかく藩主としては成り上がりばかりである。

徳川宗家自体もそうだったが、この時期になると各大名家ともに虚弱精子劣性遺伝と言う血統主義の弊害に悩まされて継嗣に恵まれず、連技(分家)などから藩主候補を連れて来て何んとか体裁を整えるのがやっとだった。

幕末の四賢候は、幕末期の幕府老中・阿部正弘に幕政改革を訴えその推進に参画をしたが、千八百五十八年(安政五年)に阿部正弘が死去、その後大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立する。

十三代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かった為、松平慶永(よしなが/春嶽)、山内豊信(とよしげ/容堂)、島津斉彬(なりあきら)、伊達宗城(むねなり)の四賢侯に加えて水戸藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき/一橋慶喜の実父)らは次期将軍に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推していた。

四賢侯らに対抗する大老・井伊直弼は地位を利用して紀州藩主・徳川慶福(とくがわよしとみ)を推し、強権を発動し安政の大獄を引き起こし、結局、井伊が推す慶福(よしとみ)が十四代将軍・家茂となる。

この政争に敗れた四賢侯と水戸・徳川斉昭(とくがわなりあき)らは揃って隠居謹慎を命じられたが、桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺され、孝明天皇の崩御、十四代将軍・家茂の死と続いて四賢侯は復活し十五代将軍・慶喜が誕生する。

千八百六十七年(慶応三年)の王政復古の後、四賢侯は新政府の議定(閣僚)に名を連ねたが、結局旧大名としての守旧的な考え方が旧下級家臣上がりの新政府要人とは馴染まず名誉職に追いやられて国政から外されて行く。

維新の十傑】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-02-08 01:16  

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