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真言密教立川流と金沢文庫(かねさわぶんこ)文献の怪

日本と言う国は、皇統を始めとする血統至上主義氏族社会が永く続いたので、現代の人々も未だに血統に対しては異常な程「氏族で在りたい病」として反応する。

現代人もそうした心理背景を思考の中に内在しているから希望的に先祖が氏族で在る事を望み、儒教・儒学(朱子学)を基本として採り入れた「武士道精神」などと言う綺麗事に騙され易い。

しかし、勘違いしては困る。

言わば、儒教・儒学(朱子学)の精神思想は永い事「氏族の精神思想」で、江戸期にはその「忠孝思想」が「武士道(さむらい道)」の手本に成ったが、けして庶民の物では無かった。

つまり、当時の支配者側と庶民側の「性に対する意識の違い」を理解せずに、現存する支配者側の文献にばかり頼ると「暗闇祭り」の意味が理解出来ないのである。

庶民側のそうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が禁令を出して終焉を迎えている。

明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。

つまり、過つての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。

従って庶民の大半には、北斗妙見(明星)信仰陰陽修験犬神信仰、真言大覚寺派の教えも明治維新までは根強く残っていたのは確かである。

この明治以後に初めて庶民にまで浸透した儒教的価値観を、まるで二千年来の歴史的な意識思想とする所に、大いに妖しさを感じるのである。

鎌倉期以後、京都五山、鎌倉五山等、禅宗寺院に於いて研究された「儒教」はやがて支配者側に浸透し、儒教を批判した弘法大師のお膝元真言宗も、一部が「儒教」の知識を取り入れて二派に分かれて行く。

もっとも儒教・儒学(朱子学)の精神思想が盛んだったお隣の韓国にも、都合が良い事に「奴婢(ヌヒ)身分」には儒教の精神思想は例外と言う両班(ヤンバン・特権貴族階級)と言う制度上の抜け道は存在したのだが、勿論「儒教」一派も都合の悪い事は意図的に考慮から外している。

後醍醐天皇の「建武親政」当時、皇統は大覚寺統と持明院統に分かれ皇統の継承争い発展していた。

為に、皇統護持の寺・真言宗醍醐寺大覚寺統持明院統に分かれ、弘法大師の真言密教を発展させた立川流の大覚寺派と真言宗に「儒教」を取り入れた持明院派の教義上の主導権争いがリンクしていた。

そして、南北朝並立時代は、皇統同士の継承争い、皇統と武門の権力闘争、大覚寺派と持明院派の主導権争いが複雑に絡んで、南北朝四十五年、後南朝五十数年と約百年に渡り内乱が続いたのである。

南朝方の抵抗は続いていたが、国土の大半を統治下に収めた皇統持明院統と足利(源)尊氏、真言宗持明院派がほぼ勝利を収めると、当然の事ながら、「儒教」を取り入れた持明院派の教義が真言宗の主流となり、真言密教立川流は弾圧され衰退の道を辿って行く。

一度根付いた大規模な信仰を根こそぎ消滅させる事は、本来並大抵ではない。

そこで攻撃する為の信者さえ納得し得る大義名分(淫邪教と呼ぶ)が採用され、真言宗は殊更儒教色の強い教義となった。

日本史には虚と実が混在している。

近頃、金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献を引用して真言密教立川流は「淫邪教では無かった」と唱える学者がいるようだ。

性的教えだから即「淫邪教」と決め付けるのは短絡過ぎるので「淫邪教では無い」までは賛成だが、金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献を引用して別の名も無い一派を登場させ、その一派が「淫邪教」で在るかのごとく摩り替えるのはかなり無理がある。

弘法大師(空海)が持ち帰った真言密教は、この桜の原種・ヒマラヤ桜と同様に中華帝国を経由して日本列島に伝わったネパールやブータン発祥の性文化そのものである。

そうした事実背景が在りながら、真言密教には「淫邪の教えは無かった」としたいのである。

室町期以後に「淫邪教」として散々弾圧し、衰退させた歴史的経緯がある「真言立川流」を、今に成って別の名も無い一派が「淫邪教」で在って、「本当の真言立川流は全く違うものだった」とする研究者が存在するが、それでは、一度根着いた信仰を徹して弾圧する為の大儀名分はいったい何だったのか?

それを言うなら、太平記に「文観僧正の手の者と号して、党を建て、肘を張るもの洛中に充満して、五~六百人に及べり」とある。

この記述に拠り、文観僧正が非人達を武装組織した「私兵だった」と言う指摘があり、徒党を組んで乱暴狼藉に及び婆娑羅な風俗を「洛中に蔓延させた」とされるが、歴史物語は主役敵役・敵味方が在って初めて面白くなる。

何しろは文観僧正は稀代の妖僧とされ、金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献は真言立川は淫邪教と鎌倉方と真言宗右派(禁欲派)に排斥されて後の記述なので、お定まりの汚名返上の為に時勢に沿った捏造物語かも知れない。

元々日本の仏教や神仏習合の修験信仰については、弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典の中にも、ヒンドゥー教の教義や祭祀の信仰は含まれていた。

ヒンドゥー教の国・インドにはカーマ(性愛)を生活の糧とする思想が在り、シヴァ神(破壊神)ダキニ天(荼枳尼天)カーマ・スートラ(インド三大性典のひとつ)などを生み出した思想の国だったから、日本に持ち込まれた仏教や神仏習合の修験信仰にその影響を与えている。

そして冷静に考えれば、「淫邪教」と決め付けるだけのエロチックな要素(必要条件)が「真言密教立川流」に存在しなければ説得力に欠ける話で、徹底弾圧の大儀名分足り得無いではないか?

その揺ぎ無い徹底弾圧の事実と、「別の名も無い一派が淫邪教」だったする事の整合性がない。

ただ金沢文庫(かねさわぶんこ)の「文献に在ったから」と、南朝・後醍醐帝まで信仰した「真言密教立川流を全く違うものだ」とする事こそ、強引なこじ付けではないだろうか?

鎌倉幕府が滅亡した後、南北朝・室町幕府時代以後に金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献を明治期まで管理したのは、真言律宗別格本山・称名寺 (しょうみょうじ)で、真言密教立川流については同じ真言宗門として、「有っては成らない」と言う都合が悪い立場の寺なのである。

そうした周辺事情を考慮すると、金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献内容にも、手放しの信頼は置けないのである。

事、良識派を気取る研究者の「有ってはならない」と言う希望的な意図する思いが、該当する文献を掘り起こした「研究成果」と、うがって考えるのは我輩だけだろうか?

そして真実から目を背(そむ)けられ、歴史も文献もでっち上げられて「無かった事にする」のである。

我輩は、時代考証に拠る推測で、現在とは違う宗教観や風俗習慣が「有って当然」と思うが、こう言うエロチックな伝承を取り上げると、直ぐに良識派を気取る連中が希望的作文で対抗してくる。

彼らの言い分は、「先祖がそんなにふしだらの訳が無いや、子供達に説明が出来ない。または外聞が悪い。」と言うもので、けして明確な根拠がある訳ではない。

それでは伝承風聞の類は最初から検証をしない事に成る。

所が、公式文献より伝承風聞の類の方が案外正直な場合がある事を忘れてはならない。

伝説や風聞を疎(おろそ)かにする研究者は、本物ではない。

時の権力を慮(おもんばか)っての真実口伝(くでん)も充分に考えられ、真実の歴史を紐解くヒントは伝説や風聞の中にこそ眠っているのである。

伝説の中に秘められたメッセージを、「謎解きの原資」としてその真実に近付かなければ歴史は語れない。

「社会的現実」と言うものは、時代と伴に変遷するものであるから、現在の「社会的現実」を持ってその時代の庶民意識や価値観を判断すべきではない。

実は、宗教(信仰)と言えども、常に「社会的現実」には迎合して変節するものである。

例えば、元々仏教と儒教は異なる宗教であるから、仏教・真言宗の開祖・弘法大師(空海)が儒教を否定していた。

所が、時代の変遷と伴に南北朝並立期の北朝・持明院統と結び付いた「真言宗右派」が、南朝・大覚寺統と結び付いた性におおらかな「左派・真言立川流」に対抗する為にその性に厳格な儒教思想を取り入れ、北朝の勝利に拠って左派・真言立川流を淫邪教として排除に掛り、仏教諸派が追随して儒教思想を取り入れた。

つまり真言原理主義からすると、生き残った真言宗右派は真言宗開祖の教えを守らない事に成り、変節した事になる。

しかし、「弘法大師(空海)様がそんな教えを説く筈が無い。」と、始めから否定して言うのが、宗教家の都合の良い本質である。

残念な事に、リアル(現実)な歴史観は宗教観と政治思想に拠って捻じ曲げられるのが常である。

はっきり言うが、「最初に結論有りき」の良識派を気取る人々の意見は、大衆受けはするかも知れないが信用は置けない。

つまり良識派の意見は真実の追究ではなく、「大衆受け」なのである。

そしてその証明の為には、意図的に改ざんされた後世の文献を鬼の首を取ったがごとく取り上げる。

都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられるのである。

歴史の流れを読む事とは、バラバラのパズルチップをかき集め当て嵌めて行く作業であり、正しい答えは断片を捉えても見えてはこない。

そもそも密教には、人間は「汚れたものではない」と言う「自性清浄(本覚思想)」と言う考えがある。

真言立川流が弘法大師(空海)の「東密(真言密教)の流れを汲む」とされるのに対し、伝教大師(最澄)の台密(天台宗の密教)でも男女の性交を以って成仏とし、摩多羅(またら)神を本尊とする「玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)」と言う一派があった。

そうした事からも、性交を通じて即身成仏に至ろうとする解釈が密教中に存在したのは確かである。

それでも醍醐寺統の皇統は続き、天皇を名乗って政権奪還を試みる。

後醍醐天皇がなくなって十年ほどする頃、勢力は次第に衰えて吉野宮も陥落する。

だが、南朝方はその後も抵抗を続けて四十五年間がんばり、一度三代将軍・足利義満の時代に和解、「三種の神器」も引き渡すが「明徳和約」による約束を反故にされる。

その後持明院統が交代で皇位を渡さなかった為に、また吉野を本拠に抵抗を始め、更に五十年余の抵抗の歴史が存在する。

南朝苦難の百年間である。

後小松(ごこまつ)天皇と将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の不可解】に続く。

真言密教立川流の詳しくは【真言密教立川流】に飛ぶ。
真言密教立川流と後醍醐天皇の子沢山】に飛ぶ。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2010-02-12 02:14  

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