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千葉常胤(ちばつねたね)

千葉常胤(ちばつねたね)は、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の一家である桓武平氏良文流千葉氏の・一族で官途名は千葉介(ちばのすけ)であり、平安末期に於ける下総国の有力在庁官人領主で在った。

千葉常胤は、多くの坂東武士同様に保元の乱に出陣し、源義朝の指揮下で戦っている。

その後、平治の乱を起こした義朝が敗死し、平清盛の平家が中央政治を独占する。

平治の乱から二十一年後、源義朝の継子・源頼朝伊豆の国(いずのくに)で挙兵し、石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ逃れると頼朝は直ちに千葉常胤に加勢を求める使者として安達盛長(あだちもりなが)を送った。

千葉常胤(ちばつねたね)と源頼朝との最初の会見は上総国府(現在の市原市)もしくは結城ノ浦(現在の千葉市中央区寒川神社付近)で行われたとされ、常胤(つねたね)は加勢に応じたが、その交渉過程は「吾妻鏡」、「源平盛衰記」の夫々に相異が見られ、本当の所は定かではない。

いずれにしても常胤の参陣の背景には、国府や親平氏派(下総藤原氏・佐竹氏)との対立関係や、かつての相馬御厨を巡る千葉常胤と頼朝の父・源義朝との間に昔の関係が在ったからである。

千葉常胤(ちばつねたね)は、頼朝挙兵時既に高齢で、胤頼(千葉常胤の庶子)と嫡孫・成胤(胤正の子)に命じて平家に近いとされた下総の目代を下総国府(現在の市川市)に襲撃してこれを討っている。

所が、匝瑳郡(そうさぐん/現・横芝光町など)に根拠を置き平家政権に拠って下総守に任じられていた判官代・藤原親正(親政)が、頼朝討伐に向かう途中でこの知らせを聞いて急遽千葉荘を攻撃した。

急遽引き返した成胤と親正は戦いに及んで判官代・藤原親正を捕縛する事に成功している。

常胤は一族三百騎を率いて下総国府に赴き頼朝に参陣した。

源頼朝の軍勢は、千葉常胤や上総広常(かずさひろつね)の与力を得て源家の本拠地・相模国鎌倉を目指す間に、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)などの大半が与力に加わって軍勢は五万騎に膨れ上がったと伝えられる。

千葉常胤は源氏軍の与力として活躍し、富士川の合戦後上洛を焦る頼朝を宥めたと伝えられ佐竹氏討伐を進言して相馬御厨の支配を奪還している。

平家討伐には、源範頼軍に属して一ノ谷の戦いに参加、その後は豊後国(大分県)に渡り軍功を上げた。

その後常胤(つねたね)は洛中警護のため上洛した他、奥州藤原氏討伐のための奥州合戦に従軍して東海道方面の大将に任じられて武功を挙げ奥州各地に所領を得ている。

安房国・千葉氏は、奥州合戦で武功を挙げ奥州各地に所領を得たを最後に、当主・千葉常胤が高齢だった為に一連の有力御家人に対する北条家の粛清を免れ、源将軍三代北条執権制確立までの政争にはほとんど名前が出てこない。

再び中央の歴史に名を登場させるのは元寇戦での九州の活躍以降であるが、子孫は各地で永らえて守護大名・戦国大名となった。

本宗家・千葉氏は室町時代末期までの約四百年間を、子孫が武蔵国、上総国、下総国の豪族領主として叙々に衰退し、桃山期の豊臣秀吉に拠る小田原平定(後北条氏戦)に拠り滅亡する。

常胤の次男が相馬氏を継いだ千葉常胤流相馬氏の子孫は下総と奥州に分かれ、南北朝時代には互いに抗争し、江戸期には下総流は旗本、奥州流は中村六万石の藩主となり明治維新を迎えている。

この下総国・千葉氏が西の周防国・大内氏と並ぶ妙見信仰(北斗北辰信仰)の有力な保護者で、後世・千葉周作(父は千葉氏流相馬中村藩剣術指南役・千葉成胤)の剣術・北辰一刀流の名はこの妙見信仰(北斗北辰信仰)に因(ち)なんだものと思われる。

また妙見信仰(北斗北辰信仰)を題材にした南総里見八犬伝にも、千葉氏の妙見信仰保護の影響が安房国の地に「生き続けていた」と思われる。

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by mmcjiyodan | 2010-02-14 01:54  

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