足立遠元(あだちとおもと)

足立遠元(あだちとおもと)は、鎌倉御家人として鎌倉殿(将軍)・源頼朝に仕えた文官要素の高い平安末期から鎌倉初期に掛けての武将である。

遠元(とおもと)の父は鳥羽院の北面武士を務めた藤原遠兼で、同じ鎌倉御家人の有力者で頼朝側近の安達盛長(あだちもりなが)は年下の叔父にあたる。

足立氏は藤原氏の流れを汲み、遠元の父・遠兼の時に武蔵国足立郡(現東京都足立区から埼玉県北足立郡)に移り足立姓を名乗ったとされる一方では、武蔵国造(むさしくにのみやっこ)の流れで承平天慶の乱の時代に足立郡司で在った武蔵武芝の子孫である「在地豪族だった」とする説もあり、出自については不明な点が多い。

遠元(とおもと)は、平治の乱源義朝の家人に加わり陣に従い、義朝の長男・源義平(みなもとのよしひら)率いる十七騎の一人として戦った。

治承・寿永の乱に於いては、挙兵した義朝の遺児・源頼朝が下総国から武蔵国に入った時期に、遠元(とおもと)は葛西氏らと共に手勢を率いて迎えに参上し家人と成っている。

千百八十四年(元暦元年)、足立遠元(あだちとおもと)は成立間もない鎌倉幕府の公文所の知事家(寄人)に補任され、千百九十年(建久元年)に頼朝が上洛した際、布衣侍(ふいもち/参内衣装の裾持ち)十二人の内に選ばれて参院の供奉をし、頼朝の推挙で官位・左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられる。

遠元(とおもと)は京都権門(中央の有力武家・公家・寺社などの勢力)とも繋がりを持ち、娘の一人は院(後白河法皇)近臣の藤原光能(ふじわらのみつよし)に嫁ぐなどして幅広い縁戚関係を築き、主に朝廷工作などを担当する官僚として活躍し、頼朝死後に成立した十三人の合議制の一人に加わるなど有力御家人の一人に数えられている。

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by mmcjiyodan | 2010-02-24 01:19 | Comments(0)  

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