鎌倉御家人(かまくらごけにん)

坂東(関東)を制圧して鎌倉に入った源頼朝は、武士の棟梁として組織化を図る。

従うを家人(臣下)とし、従わぬを攻め滅ぼして全国の武士を武力統一する。
平安時代に於いては、貴族や武家の棟梁に仕える出仕武士を「家人」と呼んでいた。

征夷大将軍の家人を特に「御家人」と称するが、鎌倉殿御家人の成立は源頼朝による鎌倉幕府の樹立経緯と密接に関連する。

源氏の棟梁を継いだ源頼朝が平家を倒して天下の実権を握り征夷大将軍の官位を得て鎌倉幕府が成立すると、鎌倉殿(将軍・源頼朝)と主従関係を結び従者となった武士を、鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人(鎌倉殿御家人)と呼ぶようになった。

つまり平家と覇を争う初期の頃から、頼朝は自分に従う「家人」を集めていた事に成る。

千百八十年(治承四年)の源頼朝が伊豆の国(いずのくに)で挙兵の際には、元々平清盛に拠って伊豆へ流人とされた頼朝の家人は極僅かで、大半は妻・北条正子の父・北条時政の手勢と流人の地伊豆で知り合った加勢だけであった。

その為父・源義朝の旧家人だった南関東の武士達を「累代の御家人」として誘引したが、当時の観念では累代の認識は無く主従関係は個々に結ぶ習慣であり頼朝に従属しない武士も多く、石橋山の合戦は惨敗だった。

その後頼朝が安房の国で再挙挙兵に成功し、鎌倉に平家に対抗する東国臨時政権を樹立すると、各地の武士が続々と頼朝支配下へと入って行く。

そこで後白河天皇(ごしらかわてんのう)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)の平家打倒の令旨が利用され、急速に増加した支配下の武士を秩序だって組織化する為に令旨に従って頼朝の支配に入った武士は一律に「御家人」として組織された。

源家の棟梁・鎌倉殿と主従関係を結び、従者となった武士を御家人と呼び、全国の御家人の総数は約四百八十家余りであり、御家人は武士の中でも非常に限られた階層だった。

鎌倉幕府と御恩・奉公の契約関係に無い「非御家人」の数も多く、非御家人の中には悪党となって幕府や公家・寺社への反抗を行う者も現れた。

御家人には、東国に在住し早い時期から頼朝に臣従していた者が鎌倉殿から直接所領安堵を受ける御家人と、荘園領主たる本所や国司の地位権限を追認した本宅安堵を受ける御家人に分けられる。

鎌倉殿から直接所領安堵を受けた御家人は、地頭職に補任されるなどの厚い保護を受ける見返りに有事には緊急に鎌倉に参集する義務を負っていた。

鎌倉幕府成立に武功が在って直接所領安堵を受けた有力御家人は広大な所領を持ち数カ国の守護を兼ねる者も在ったが、零細な御家人も含め御家人相互の主従関係・支配関係は厳しく禁じられ、鎌倉殿に等しく従属する家人として身分上は同格として扱われた。

本宅安堵の御家人は、国を単位に編成されて「国御家人」と呼ばれ、大番役(鎌倉警護)への催促を通じて各地武士の国御家人化が進められ、西国武士の多くがこれにより国御家人へ編成された。

この国御家人を統括するのは守護の任務であり、大番役(鎌倉警護)を催促するとともに大番役勤仕の御家人名簿を幕府へ提出していた。

この御家人の名簿に載っているのが幕府認定の武士であり、乗っていない武士は未登録の言わば「まつらわぬ者」で、反政府勢力或いは悪党・野武士の類と言う事に成る。

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初期・鎌倉有力御家人記事リスト(◆印は十三人の合議制のメンバー)
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◆北条義時(ほうじょうよしとき)】に飛ぶ。
上総広常(かずさひろつね)】に飛ぶ。
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◆十三人の合議制のメンバーは、頼朝の舅・北条時政(ほうじょうときまさ)、その継嗣で頼朝の義弟・北条義時(ほうじょうよしとき)、頼朝の流人時代からの側近・安達盛長(あだちもりなが)、頼朝最大の危機から逃した梶原景時(かじわらかげとき)、頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の継養子・比企能員(ひきよしかず)、頼朝の旗揚げに即座に呼応した三浦義澄(みうらよしずみ)と同じ三浦流の和田義盛(わだよしもり)、官僚実務を取り仕切る・大江広元(おおえのひろもと)、側近・安達盛長(あだちもりなが)の年下の叔父・足立遠元(あだちとおもと)、その他十三人の合議制のメンバーには大江広元の兄・中原親能(なかはらのちかよし)、頼朝の外祖父・熱田大宮司・藤原季範の妹の子・二階堂行政(にかいどうゆきまさ)、下級公家・三善康信(みよしのやすのぶ)、頼朝の異腹弟とも言われた・八田知家(はったともいえ)が居た。

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皇統と鵺の影人
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by mmcjiyodan | 2010-02-25 00:37 | Comments(0)  

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