日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)

江戸幕府を創設した徳川家康は、天台宗の関東の全権を握った二代目・天海僧正に、天台宗・喜多院の寺領として日光山の一帯を贈っている。

二代目天海は家康の死後そこに東照宮を建て、その一帯を「明智平」と命名するのだが、天海が明智氏に縁無き者なら、謀反人明智の名を寺領に使うのは説明が付き難い。

増してや、本能寺の変当時の伊賀超えの家康逃避行が「茶番」でないなら、命を狙った明智の名の寺領命名など徳川家が許す訳がない。

この明智平の地名は、今に栃木県・日光の地に残っている。

そして明智光秀=天海僧正説最大の疑惑の象徴が、明智平に在る日光東照宮の存在だった。

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の前身は、平安期の八百七十二年(天応二年)に勝道上人(しょうどうじょうにん)が下野国(しもつけのくに)・男体山頂上(現・栃木県日光市山内)に四本龍寺を開山したもので、その後日光山の造営は源義朝で、祭神は江戸幕府初代将軍・徳川家康(東照大権現)とし、その他に源頼朝を配祀している。

まぁ、建前源氏の系図を名乗っている徳川家としては、源頼朝を配祀されていても不都合は無い。

日光山は、源氏の棟梁・源頼朝の鎌倉幕府開府後は永く坂東(関東)武士の信仰を集めていた。

千六百十六年(元和二年)に駿河(静岡)・久能山(久能山東照宮)から天台宗天海僧正に拠って日光に家康が改葬され、千六百十七年(元和三年)徳川二代将軍・秀忠が、陰陽修験道の色合いが濃い神仏集合の東照社(とうしょうしゃ)として創建した。

特筆すべきは、久能山東照宮には日光東照宮に存在する「明智疑惑の桔梗紋などは存在しない」と言う事実である。

前述した様に天海は、家康没後、一旦駿府の久能山(東照宮)に鎮座させた家康(大権現)を日光山に移している。

日光の位置も風水上の江戸の要であると同時に、その建設にはいざ徳川家江戸落ちに際しては要塞と化す工夫がなされていた。

徳川幕府にとって、誰も否定出来ない極めて重要な施設である。

その日光東照宮を守る陽明門(日の当たる明智の門?)の木造り像の武士の紋は、明智家の家紋「桔梗紋」であり、近くの鐘楼のひさしの裏にも、おびただしい「桔梗紋」が見受けられる。

徳川の墓所であるのに「葵紋」以外に、いたる処に「桔梗紋」が隠されているのは何を意味するのか。

この事は、明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない。

天海が家康の為に神号を取るのは、感謝と尊敬の念による。

その神号がすごい、東照大権現(とうしょうだいごんげん)である。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は日本の最高神であるり、それに準じる様に東を照らすと来て「現れになった神」と来た。

家康は天海の一世一代の仕事で、神君(しんくん)となり、日光東照宮に鎮座している。

この日光東照宮の銘々に、我輩はいささか異論がある。

本来、徳川家康が東照宮の宮(ぐう)を名付けられるのはいささか問題がある。

本場中国では神様と言っても実在の人物が祭られるのは廟(びよう)であり、つまり日光東照廟が正しい。

日本の神社の成り立ちを氏神(氏上)に見る上でヒントになるのが明神(みょうじん)権現(ごんげん)で、実は明神も権現も言わばこの世に現れた神様の事である。

代表的な氏上(神様)が、剣明神社(つるぎみょうじん/織田神社)や東照権現(とうしょうごんげん/日光徳川神社)と言う事になる。

明智光秀=天海僧正説の詳しくは【明智光秀=天海僧正説を検証する】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2010-02-28 03:14 | Comments(0)  

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