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元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡・(二)笠置(かさぎ)山

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後醍醐帝が二度目に挙兵した笠置(かさぎ)山は、六百六十一年に笠置山の巨岩石に実忠和尚、良弁僧正が仏像を彫刻され、それを中心に笠置山全体が修験行者の修験場として栄える事となった。

つまり元々勘解由小路党の強固な霊場基盤であった。

平安末期の末法思想の流行とともに大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受け、笠置詣でが行われる様になる。

千百九十一年(建久二年)、藤原貞慶(解脱上人)が興福寺から笠置寺へ移り、笠置山は信仰の山として全盛期を極めた。

しかし二百六十年後、後醍醐天皇の挙兵により全山炎上、灰燼に帰したのである。

幕府方は、後醍醐方討伐の為に大仏貞直(おさらぎさだなお/北条貞直)、金沢貞冬(かなざわさだふゆ/北条貞冬)、足利高氏(あしかがたかうじ/後の尊氏)、新田義貞(にったよしさだ)らの大軍を差し向ける。

まず後醍醐帝の笠置山が陥落、次いで護良親王(もりながしんのう)の吉野山・金峯山寺も陥落して護良親王はいずこかへ潜伏し、最後は楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。

その下赤坂城で幕府軍は苦戦を強いられる。

楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して、大木を落とし熱湯を浴びせ予め設けて置いた二重塀を落としたりと言った奇策を駆使し持ち堪えていた。

しかし敵方に包囲されての長期戦は不利と見た楠木正成(くすのきまさしげ)は、自ら下赤坂城に火をかけ自害したように見せかけて姿をくらませる。

やがて笠置山を逃亡した後醍醐天皇が側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられ隠岐国に流された為、討幕勢力は弱体化する。

元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡・(三)隠岐流配】に続く。
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参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。

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by mmcjiyodan | 2011-12-21 18:44  

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