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歴代朝鮮王朝略史(一)

朝鮮半島側に於いても、古代朝鮮に於いて檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮、辰国などの伝説的な国の言い伝えは存在するが、それらは日本の古事記日本書紀の類の記述と同様な後世の創作部分が多いと推論される程度のものである。

実は朝鮮半島も日本列島もまだ中華帝国周辺の小国家群の内で、朝鮮半島から日本列島の西半分に掛けてが倭人達の住む「倭の国々」だった。

史上その存在を確認できる王朝は七世紀中盤の三国(サムグ)時代からで、半島南東部の新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の三か国が鼎立していた。

新羅(シルラ)は、古代の朝鮮半島南東部に紀元前五十七年頃に成立した国で、三国史記の新羅本紀によれば王統が金(キム)氏、昔(ソク)氏、朴(パク)氏とされ、建国神話に於いてこの王系三姓がそれぞれに始祖説話を持っている。

特に昔(ソク)氏に於いては、その始祖説話で「倭人」とされる事から「新羅王は、日本人だった!」と唱える者も居るが、それは大きな間違いである。

これは経時的な視点を無視したもので、広域倭国論では乱立した倭人の小国群が朝鮮半島から日本列島の西半分まで広がっていた時代で現在の人種的な線引きは、半島にも列島にも存在しない。

高句麗(コグリョ)は朝鮮半島北部紀元前三十七年頃に扶餘系民族に拠り成立した国で、最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とし、王統は高(コ)氏だった。

日本語で「こま」と称した高句麗(コグリョ)は、中華帝国の隋・煬帝(ヤンディ)、唐・太宗(タイソン)に拠る遠征を何度も撃退したが、唐と新羅の連合軍により滅ぼされた。

百済(ペクチェ)は紀元前十八年頃に成立した国で、百済(ペクチェ)辰王家である扶餘(プヨ)氏は呉人で、中華帝国史上に於ける亡国の民が「半島に逃れて来て建国した」とされる。

百済八姓はいずれも中国亡国の民で百済王家の姓は余氏、百済扶餘氏とも言い呉王家の姫氏、百済の木氏、倭の紀氏はいずれも同族とされる呉人である。

七世紀中頃に新羅は朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。

朝鮮半島までに広がっていた「古代・広域・倭国(わのくに)群」が消滅の道を辿ったのは、朝鮮半島側が早い時期に大きな国三ヶ国(サムグ時代)に成り、やがて統一国家「新羅(シルラ)統一王朝」の成立と伴に、中華帝国における倭の国の呼称が日本列島側だけに残ったからである。

日本列島の倭国で統一大和朝廷が成立した頃、一方の倭国である朝鮮半島では、日本列島・大和朝廷飛鳥時代になる頃に百済(くだら・ペクチェ)が新羅(しらぎ・シルラ)と中華帝国「唐」の連合軍に敗れ滅んでいる。

大和朝廷は百済再興の為、大軍を送ったが、「白村江の戦い」で大敗を喫してしまう。

この敗戦のダメージは、相当大きかったに違いない。

この頃、戦勝国「新羅」から、「多くの王族、豪族が渡来して来た」と言われている。

百済(くだら・ペクチェ)滅亡から八年、高句麗(こうくり・コグリョ)も新羅(しらぎ・シルラ)・「唐」の連合軍に滅ぼされ、新羅が始めて朝鮮半島を統一する。

歴代朝鮮王朝略史(二)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-03-28 02:01  

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