宇多天皇(うだてんのう)
宇多天皇(うだてんのう/五十九代)も、陽成天皇(ようぜいてんのう/五十七代)と実力者の関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)の主導権争いに翻弄されて数奇な運命を辿った人物である。
光孝天皇(こうこうてんのう/五十八代)の第七皇子・定省親王(さだみしんのう)は、藤原基経(ふじわらのもとつね)に廃され上皇となった陽成(ようぜい)を納得させる条件として光孝天皇(こうこうてんのう)の践祚(せんそ)に際して臣籍降下していた。
定省親王(さだみしんのう)は臣籍降下に際して源氏の姓を賜って源定省(みなもとさだみ)を称し、つまり光孝朝の親王からは立太子せず、一代限りと言う形式を踏んでいた。
所が、陽成上皇(ようぜいじょうこう)が健在の内に光孝天皇(こうこうてんのう)が病を得て情況が変わり、慌てた藤原基経(ふじわらのもとつね)の後押しで、基経(もとつね)の異母妹である尚侍・藤原淑子の猶子(ゆうし/相続権を持たない養子)・源定省(みなもとさだみ)は急遽皇族に復帰して皇太子に立てられる。
この処置、皇族復帰翌日の立太子、同日、「先帝・光孝天皇(こうこうてんのう)の病没と定省親王(さだみしんのう)の践祚(せんそ/皇位継承)」と言う慌しさだった。
即位した宇多天皇(うだてんのう)は、関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)に後押しされた恩義を感じつつも基経(もとつね)の強引な専横政治に頭を悩まし、やがて距離を置くようになり基経(もとつね)死去をきっかけに親政を目論んで学者家系の中流貴族・菅原道真(すがわらのみちざね)に目を着けて重用する。
また藤原氏の権勢も侮れなかった事から、先帝・光孝天皇(こうこうてんのう/五十八代)の贔屓を得て出世を始めていた基経(もとつね)の嫡男・藤原時平(ふじわらのときひら)も徐々に昇進させた為、後に道真(みちざね)が誣告(ぶこく/罪無き虚偽の申告)されて九州大宰府に左遷される悲劇を招く事になる。
八百九十七年(寛平九年)、宇多天皇が譲位して上皇となり、第一皇子・維城親王(これざねしんのう)を醍醐天皇(だいごてんのう/六十代)として即位させ、時平(ときひら)を空位となっていた藤氏長者としている。
尚、この宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜り臣籍に降下して宇多源氏流となり、平安期に近江を地盤とした武家・佐々木氏、また守護大名・佐々木六角氏や佐々木京極氏を排出した。
更に、京極氏からは戦国大名・尼子氏(あまごうじ)が出た。
但し佐々木氏には、古代から平安時代中期まで近江の国に勢力を持っていた阿部臣・沙沙貴山君(ささきやまのきみ)後裔説、や宇多源氏流佐々木氏と沙沙貴山君(ささきやまのきみ)の同化説などがある。
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