清少納言(せいしょうなごん)
一人はご存知の「枕草子」を記した清少納言(せいしょうなごん)と言う作家・歌人で、「清」は清原の姓から、「少納言」は親族の「役職名から採った」とされ、「清少納言」は女房名で「本名は清原諾子(なぎこ)」と言う説もあるが不詳とされている。
九百八十一年(天元四年)頃、橘諸兄(たちばなのもろえ)の後裔である橘氏長者・中宮亮(ちゅうぐうしき/皇后事務職)の陸奥守・橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し、翌年一子・橘則長(たちばなののりなが)を生むも、武骨な夫と反りが合わずやがて離婚する。
ただ、前夫・則光との交流はここで断絶したわけではなく、一説では離婚五年後の九百九十八年(長徳四年)頃まで交流があり、「妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だった」と伝えられている。
その離婚の後、時期は判然としないが、清少納言(せいしょうなごん)は藤原南家流の摂津守・藤原棟世(ふじわらのむねよ)と再婚し娘・小馬命婦(こうまのみょうぶ/歌人)を儲けいる。
いずれにしても清少納言(せいしょうなごん)は、国司クラスの貴族社会で暮らして居た女性である事は間違いがない。
九百九十三年(正暦四年)、一条天皇の時代に私的な女房として一条天皇中宮(皇后)・定子に仕え、博学で才気煥発な清少納言(せいしょうなごん)は、主君・定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に名を残す。
「枕草子」には、「ものはづくし(歌枕などの類聚)」、詩歌秀句、日常の観察、個人の事や人々の噂、記録の性質を持つ回想など、清少納言(せいしょうなごん)が平安の宮廷で過ごした間に興味を持ったもの全てがまとめられている。
中宮(皇后)に仕える清少納言(せいしょうなごん)との親交が諸資料から窺える貴族に、藤原実方、藤原斉信、藤原行成、源宣方、源経房などが在り、特に左中将・藤原実方(ふじわらのさねかた)との贈答が数多く知られ事から恋愛関係が想定される。
千年(長保二年)に一条天皇中宮(皇后)・定子が出産時の不幸で没してしまい清少納言が宮仕えを退いて後、もう一人の女流作家・紫式部が一条天皇中宮(皇后)・彰子(藤原道長の長女)に伺候する。
【紫式部(むらさきしきぶ)】に続く。
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