摂関政治(せっかんせいじ)
天皇君主制を取る国家に於いて、君主が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行う事ができない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)事、またはその役職を摂政(せっしょう)と言う。
摂政(せっしょう)には、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、或いは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。
この場合の摂政(せっしょう)は、君主の成人や病気の快癒に拠って解任され得る性質のものである。
しかし関白(かんぱく)はそうした一時的処置と違い、律令に本来規定された官ではない令外官であり、実質的に公家の最高位(百官の最上位)としてズバリ天皇が健在で在っても代わりに政治を行う職である。
関白位(かんぱくい)は、形式上は天皇が実務を任せる形ではあるが治世運営上の実質的最高責任者でその権限は強力だった。
藤原北家・良房流一族が、代々この摂関政治(せっかんせいじ)を世襲する足掛かりを築いたのが、藤原良房(ふじわらのよしふさ)の父・追贈太政大臣・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ/右大臣・藤原内麻呂の子)である。
藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が、八百十年に嵯峨天皇(さがてんのう/五十二代)の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任した事に家勢の上昇が始まった。
その冬嗣(ふゆつぐ)の子・藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、「承和の変」に於いて伴・橘両氏及び藤原式家を失脚させて八百五十七年に人臣として初めて太政大臣に就任する。
また、良房(よしふさ)は文徳天皇(もんとくてんのう/五十五代)に娘を嫁がせ、その結果五十六代・清和天皇(せいわてんのう)が誕生し、良房(よしふさ)は天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築き、八百六十六年には「応天門の変」に於いて伴・紀両氏を失脚させ、人臣として初めて摂政(せっしょう)へと就任する。
この藤原良房(ふじわらのよしふさ)の、娘を天皇家に嫁がせて次代の天皇と母系的繋がりを持つ手法は藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなって摂関政治(せっかんせいじ)体制を確立して行った。
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