院政政治(いんせいせいじ)

院政(いんせい)とは、在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う形態の政治で、特に、千八十六年の白河上皇の時代から平家滅亡の千百八十五年頃までを「院政時代」と呼ぶ事があり、院政を布く上皇は「治天の君」とも呼ばれた。

但し、この院政と言う表現は後の世の命名で、天皇が余力ある内に引退し「若き子(孫)の天皇を後見する」と言う意味では院政のめばえは持統天皇・元正天皇・聖武天皇などから見られる。

当初は大兄制(同母兄弟中の長男)であり皇位継承が安定していなかった為、譲位と言う意思表示に拠って意中の皇子に皇位継承させる為にとられた方法と考えられている。

この太上天皇(上皇)が天皇に代わって政務を直接行う形態は、平安時代に入っても嵯峨天皇や宇多天皇や円融天皇などにも見られ、これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与する事があった。

その後、「神の意向で統治する」と言う精神的統合の象徴である天皇家の存在から、当時はまだ強い王権の状態を常に維持する為の政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分で在った。

また平安時代中期には、血統至上主義に在る皇統として虚弱精子劣性遺伝の影響を受け、幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮する為の若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかった為に、父系によるこの仕組みは衰退して行く。

そして代わりに、母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家流が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治(せっかんせいじ)が隆盛して行く事になる。

その藤原北家流の摂関政治(せっかんせいじ)は、千六十八年(治暦四年)の皇統を一条天皇系へ統一すると言う流れの中で行われた後三条天皇(七十一代)の即位に拠って揺らぎ始める事となる。

後三条天皇(七十一代)は、宇多天皇(五十九代)以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない百七十年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた藤原北家流摂関政治が成立しない事態を迎えた。

即位四年後、後三条天皇は第一皇子・貞仁親王(さだひとしんのう/七十二代・白河天皇)へ生前譲位し、その直後に病没してしまう。

後三条天皇の後を受けた白河天皇の母も、摂関家ではない閑院流出身で中納言・藤原公成の娘、春宮大夫・藤原能信の養女である女御藤原茂子で在った為、白河天皇は、関白こそ置いたが後三条天皇と同様に親政を行った。

十四年後の千八十六年、白河天皇は当時八歳の善仁皇子(たるひとのみこ/七十二代・堀河天皇)へ譲位し太上天皇(上皇)となって堀河幼帝の後見を理由に白川院と称して引き続き政務に当り、これが院政の始まりであるとされている。

千百七年(嘉承二年)に堀河天皇が没するとその皇子(鳥羽天皇)が四歳で即位し、またも白河上皇は院政を続け白河上皇以後、院政を布いた上皇は治天の君、すなわち事実上の国王として君臨する政治体制が成立した。

白河天皇(しらかわてんのう/後に上皇・法皇)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-04-23 01:01 | Comments(0)  

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