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藤原忠平(ふじわらのただひら)

平安中期の大乱・「承平天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱」勃発時に朝廷で鎮圧の最高指揮を執ったのが藤原忠平(ふじわらのただひら)である。

藤原忠平(ふじわらのただひら)は、藤原北家流・関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)の四男として生まれ、春宮大夫兼左兵衛督、検非違使別当、権中納言、蔵人別当兼右近衛大将と順調に昇任した。

父・基経(もとつね)の後を継いで出世の階段を昇り始めたのは長兄・藤原時平(ふじわらのときひら)だったが、時の天皇・宇多(うだ)摂関を置かずに親政を目指して学者の菅原道真(すがわらみちざね)を登用、長兄の時平(ときひら)らと政治を主導する。

その宇多天皇が八百九十七年(寛平九年)に譲位して醍醐天皇が即位すると、兄・時平(ときひら)は左大臣、道真(みちざね)は右大臣に並んで朝政を執ったが、やがて政争が起き道真(みちざね)は失脚する。

長兄・藤原時平(ふじわらのときひら)は政権を握り諸改革に着手するが、九百九年(延喜九年)に三十九歳で早世、幼くして聡明で知らた忠平(ただひら)は次兄の仲平を差し置いて藤氏長者として嫡家を継ぎ、藤原北家流はその後は忠平(ただひら)の系流に移った。

忠平(ただひら)の妻・源順子は宇多天皇の皇女(養女説在り)であり、宇多天皇側近であった菅原道真とも親交が在り、宇多天皇や道真と対立していた長兄・時平からは疎んじられていたとも伝えられている。

病弱の醍醐帝に代わって宇多法皇(上皇)が国政に最関与を始めた時、藤原忠平(ふじわらのただひら)は宇多法皇(上皇)の推しで出世を早めている。

以後、忠平(ただひら)は醍醐天皇の下で出世を重ね、大納言に転じて左近衛大将を兼ね、五年後の九百十四年(延喜十四年)に右大臣、その十年後の九百二十四年(延長二年)には左大臣となる。

左大臣に昇って六年、醍醐天皇は病が篤い為に第十一皇子・寛明親王(ゆたあきらしんのう/朱雀天皇)に譲位、朱雀天皇は、譲位して上皇と成った醍醐から「左大臣・藤原忠平の訓を聞く事」と諭されている。

新帝・朱雀が幼少である為に基経(もとつね)の没後は久しく置かれなかった摂政関白位を再開、忠平(ただひら)が摂政(せっしょう)に任じられる。

この忠平(ただひら)摂政時代の九百三十九年、過っての忠平(ただひら)家人・平将門(たいらのまさかど)と藤原北家一門の遠戚である藤原純友(ふじわらのすみとも)による承平天慶の乱が起きたが、いずれも最終的には鎮圧されている。

九百四十六年(天慶四年)朱雀天皇が元服し為、忠平(ただひら)は摂政を辞すが、朱雀帝に詔され引き続き万機を委ねられ関白に任じられた。

三十五歳若さで臣下最高位に昇り詰めた藤原忠平(ふじわらのただひら)は、死去するまでの三十五年間もその地位を維持し、村上天皇の初期まで長く政権の座に在った。

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by mmcjiyodan | 2010-05-05 00:05  

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