紀氏(きし/きのうじ)と紀古佐美(きのこさみ)

蝦夷征伐の征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての武人公家である。

古佐美(こさみ)の紀氏(きし/きのうじ)は、武内宿禰(たけのうちすくね)系の古代豪族の一つで、宿禰の母・影媛(宇遅比女、武内角宿禰の祖母)が紀伊国造(きいくにのみやっこ)家の出であった事から母方の紀姓を息子に名乗らせたとされる。

国造(くにのみやっこ)とは、字のごとくその地方を治めた地方豪族(臣王)で在る事を示し、紀伊国造(きいくにのみやっこ)は即ち紀伊国の国主を意味している。

紀氏(きし/きのうじ)は、古代は臣姓・朝臣を賜り、紀小弓・紀大磐・紀男麻呂などが廷臣や鎮守府将軍として軍事面で活躍する傾向が目立っていた。

しかし七百八十九年(延暦八年)、ヒタカミ(日高見国)蝦夷の役で桓武天皇に命じられて征夷将軍として出撃した紀古佐美(きのこさみ)は、アテルイ(阿弖流為)の反撃に合い敗退して都に逃げ帰り、敗北の責任を問われて征夷将軍の位を剥奪された。

その敗戦後を受けてヒタカミ(日高見国)攻略に成功し、初代・征夷大将軍に出世したのが坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)である。


渡来氏族に、鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)と呼ばれた蝦夷(エミシ)族にしてみれば、ヤマト王権桓武天皇こそ鬼そのものだった。

そしてその手先が、征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)や征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)だった。


平安時代に入り藤原氏が朝廷の要職を占めて来るに連れて紀長谷雄(紀大人の子の紀古麿の子孫)以降の紀氏(きし/きのうじ)は政治・軍事面で活躍する機会はほぼ無く成った。

紀淑望・紀淑人(紀長谷雄の子)、紀貫之・紀友則(紀大人の子の紀園益の子孫)以降の子孫は神職や文人として活躍するようになる。

紀氏(きし/きのうじ)では、平安期・九百五年(延喜五年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集「古今和歌集」を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒と共に編纂した歌人の紀貫之(きのつらゆき)が有名である。

氏族・紀氏(きし/きのうじ)の長は紀伊国造(きいくにのみやっこ)を称し、現在に至るまで日前神宮・國懸神宮(和歌山県和歌山市)の祭祀を受け継いでいる。

紀氏の流れを汲む末裔として、浦上氏や安富氏、益子氏、菅谷氏、信太氏、高安氏、中村氏、品川氏、堀田氏(江戸時代の大名家の堀田氏は仮冒系図の可能性)、などが挙げられる。


桓武天皇のヒタカミ(日高見国)蝦夷の役】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-05-21 00:56 | Comments(0)  

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