名和長年(なわながとし)

名和長年(なわながとし)は、鎌倉幕府の倒幕を志して隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が島を脱出すると、これを船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、討幕運動に加わった南北朝時代の武将である。

伯耆国(ほうきのくに)・名和(現・鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主で、赤松氏と同じく村上源氏雅兼流を自称しているが、長年(がとし)は武装大海運業者だったとする説、悪党と呼ばれた武士であったとする説がある。

悪党と呼ばれ聞き耳が悪いが悪人ではなく、鎌倉幕府に「祭(奉)らわぬ者/マツラワヌ者」為に幕府御家人に加わらない在地の勢力を悪党と呼んでいた。

いずれにしても明治維新時の倒幕の志士同様に、現状の境遇から浮上したい志を持つ者にとって後醍醐天皇の倒幕の志しは潜在一隅の機会だった。

足利尊氏(あしかがたかうじ)新田義貞(にったよしさだ)ら源氏流の有力鎌倉御家人が鎌倉幕府から後醍醐方に寝返る前に後醍醐天皇の元に幕府倒幕の旗を掲げたのは、悪党と呼ばれた河内国豪族・楠木正成(くすのきまさしげ)や播磨国豪族・赤松則村(あかまつのりむら/円心)、そしてこの名和長年(なわながとし)ら元々幕府にはマツラワヌ者達だった。

長年(ながとし)は、幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政において、河内国の豪族・楠木正成(くすのきまさしげ)らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務め、帆掛け船の家紋を与えられる。

また後醍醐帝は、長年(ながとし)を伯耆守(ほうきのかみの)に任じ、名和氏の出自である商業者的性格を重んじて京都の左京の市を管轄する機関の長である東市正に任じている。

長年(ながとし)が伯耆守(ほうきのかみの)であった事から(キ)、同じく建武の新政下で重用された難波の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)の(キ)、藤原秀郷小山朝光流・結城親光(ゆうきちかみつ)の(キ)、村上源氏久我流武将公家・千種忠顕(ちぐさ ただあき)の(クサ)と合わせて「三木一草」と称された。

千三百三十五年(建武二年)、長年(ながとし)は西園寺公宗が北条氏の残党と組み新政を転覆しようとした謀略が発覚して逮捕されると、公宗を出雲国へ流刑する途中に処刑している。

その後信濃で北条時行らが蜂起し鎌倉を一時占領した「中先代の乱」の討伐を契機に、足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武政権から離脱すると、長年(ながとし)は楠木正成、新田義貞らと共に宮方(南朝方)として尊氏と戦う。

だが、延元元年の湊川の戦いの後に京都に入った尊氏に敗れ、名和長年(なわながとし)は討死し、宮方(南朝方)は劣勢に追いやられて行く。

長年(ながとし)と嫡男・義高を失った名和氏は、長年(ながとし)の孫・顕興(あきおき)を盟主に奉じて、菊池武光を頼って肥後八代に下向し菊池氏と伴に九州の宮方として南朝に組するも、最後は足利方に降伏して八代城主として室町時代を迎え、室町幕府体勢に組み入れられた。

その後長年(ながとし)の子孫は戦国期を生き抜いて柳河・立花氏の客分となり、江戸期は立花家の家臣として伯耆氏を称した後、名和姓に復して明治維新に至った。

千八百七十八年(明治十一年)、長年(ながとし)子孫・名和長恭は南朝の忠臣で在ったと言う由緒から、明治政府から名和神社の宮司に任ぜられて男爵を授けられた。

詳細は【元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡】に飛ぶ。

参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。

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by mmcjiyodan | 2010-06-01 16:46 | Comments(0)  

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