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佐々木信綱(ささきのぶつな)

宇多源氏佐々木流・佐々木信綱(ささきのぶつな)は、後に近江国守護を務める鎌倉御家人・佐々木定綱の四男として生まれる。

千二百二十一年(承久三年)、本領佐々木氏・佐々木信綱(ささきのぶつな)は朝廷方・後鳥羽上皇か幕府方・北条正子かの選択を迫られる承久の乱に直面する。

長兄の広綱は朝廷方、信綱(のぶつな)は鎌倉幕府方として承久の乱に加わり、宇治川を挟んで対する朝廷方を攻めるべく、芝田兼義、中山重継、安東忠家らと共に川へと入るが、朝廷方からの矢と急流により渡れず、足止め状態に陥った。

信綱(のぶつな)は中州に於いて策を練り、長男の重綱を総大将である北条泰時の陣へと遣わし援軍を求め、加勢に来た泰時の長男である時氏と共に川を渡り朝廷方を破る。

これにより乱の大勢は決し、朝廷方に属した長兄の広綱は斬首となり、翌年、信綱は宇治川での戦功により佐々木氏の本貫地である近江国・佐々木豊浦、羽爾堅田、栗本北郡の地頭職を得る。

その後の千二百二十六年(嘉禄二年)前年暮れに元服した藤原頼経の征夷大将軍宣下を得る為の朝廷への使者を務め、六年後の千二百三十二年(寛喜四年)には近江守に任ぜられる。

千二百三十五年(文暦二年)には、信綱(のぶつな)は承久の乱で得た佐々木豊浦に代わり、尾張国長岡の地頭職を得ている。

その後佐々木氏では、長男の重綱が廃嫡と成っていた為に三男の泰綱が本領佐々木氏を継ぐ筈だったが、長男・重綱の訴えを幕府受け入れた為に止む終えず佐々木信綱が四人の息子に近江その他の所領を分けて継がせる事となった。

実はこの幕府裁定には、本領・佐々木氏の所領が「群を抜いて大きい」と言う幕府方の警戒心もあり、それを察知して先手を打ったた信綱(のぶつな)の苦心の処置だった。

近江は長男の重綱が坂田郡大原荘を、次男の高信が高島郡田中郷を、三男の泰綱が宗家と江南に在る神崎、蒲生、野洲、栗太、甲賀、滋賀の六郡を、四男の氏信が江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡を分けて継いだ。

その三男の泰綱が京都の六角堂(六角東洞院)に屋敷を構えた事から佐々木六角氏を名乗り、四男の氏信が京の京極高辻の館を得て佐々木京極氏を名乗ったのである。

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by mmcjiyodan | 2010-06-17 01:07  

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