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浅井江(あざいごう/崇源院・すうげんいん)

浅井江(あざいごう/崇源院・すうげんいん)は、お江(おごう)もしくは於江与(おえよ)とも呼ばれる。

戦国大名・浅井長政織田信長の妹・との間の浅井三姉妹(あざいさんしまい)の三女・浅井江(あざいごう/崇源院・すうげんいん)の前半生は、波乱に満ちたものである。

北近江国小谷城主・戦国大名・浅井長政と尾張国・織田信秀の娘・市(織田信長の妹)の間に、所謂浅井三姉妹の三番目の娘として生まれた。

その後、父・長政と伯父・織田信長が交戦し小谷城は落城、母・市が再婚した義父・柴田勝家羽柴秀吉と交戦し北ノ庄城も落城と二度の落城を経験する。

江(ごう)が長女・淀君(浅井茶々)や二女・常高院(浅井初)の姉二人と比べると歴史的に地味な存在であるのは、徳川二代将軍・徳川秀忠の正室と言う立場では在ったが、彼女自身が余り軍事・政争に関与する事が無かったからである。

江(ごう)の最初の婚姻相手は母の姉(お犬の方)の子・佐治一成(さじ かずなり)で、秀吉の命により十一歳で嫁いだが一成が小牧・長久手の戦いに於いて織田信雄(信長次男)を擁立した徳川家康に味方した為に秀吉の怒りに触れ、一成は所領を没収されるとともに江(ごう)と離縁させられた。

二度目の江(ごう)の婚姻相手は、秀吉の姉・日秀の子で秀吉の甥にあたり秀吉の養子に迎えられた豊臣秀勝(とよとみのひでかつ)で、江(ごう)との間に娘の完子が生れる。

豊臣秀勝(とよとみのひでかつ)は文禄の役に出陣し、その最中に病を得て巨済島にて病没した為、秀吉の正室・高台院(北政所/木下おね)の甥・豊臣秀俊(小早川秀秋)が遺跡を相続した。

三度目は千五百九十五年(文禄四年)、江(ごう)は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠に二十三歳で再々嫁し、徳川家康の嫡男・秀忠の正室(継室)となり、江(ごう)が秀忠と再々婚した事で娘の完子は伯母の淀殿に引き取られ養われる。

明治維新後の西欧化でロックインして今では夫婦同姓が当たり前に成っているが、東洋の国々は元々夫婦別姓が基本だったから、当時の夫婦は別姓で、生まれた家の姓が正式な名乗だから何度再婚しても浅井江(あざいごう)である。

まぁ正室だけでなく側室も持つ時代だったから、結婚についても夫婦同姓にする事は余分な手間だったのかも知れない。

江(ごう)は秀忠との間には千五百九十七年(慶長二年)の千姫(せんひめ/天樹院)を頭に徳川家光徳川忠長など二男五女を儲けている。

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by mmcjiyodan | 2010-06-21 02:19  

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