伊予戦国三武将・宇都宮氏、河野氏、西園寺氏

戦国時代末期、肱川嵐(ひじかわあらし)の大洲市と内子町は喜多郡と呼ばれ、領主は宇都宮豊綱に代表される伊予宇都宮氏である。

伊予国・宇都宮氏は下野国・宇都宮氏と同族で、宇都宮氏の分家の一つであり喜多郡に勢力を築いた。

戦国時代の宇都宮氏当主・宇都宮豊綱(うつのみやとよつな)は大洲城城主で在ったが、当時の伊予国内では道後方面を支配する守護の河野氏、宇和郡の西園寺氏に挟まれる位置にあり、国外からも土佐の公家大名・一条氏、豊後の大友氏、中国地方の大内氏、後に毛利氏と言った諸勢力が伊予への大きな関わりを持って、さながら伊予の国は戦国期の縮図だった。

宇都宮氏の宿敵・宇和郡の戦国大名・西園寺公広(さいおんじきんひろ)は伊予の黒瀬城主で、初陣は千五百三十七年(天文六年)の土佐国・一条兼定攻めである。

西園寺公広(さいおんじきんひろ)は千五百六十八年(永禄十一年)、毛利氏、河野氏と手を結んで一条兼定、宇都宮豊綱、津野氏を攻めて勝利し、四年後の千五百七十二年(元亀三年)に再び一条氏を攻めたが、逆に一条氏と縁戚関係に在った大友宗麟の攻撃を受けて大敗している。

もう一方の宇都宮氏の宿敵・伊予国の道後方面を支配する守護の河野氏の出自は古く、ニギハヤヒ命の後裔「越智氏から出ている」とされる。

守護の河野氏当主・河野通宣(こうのみちのぶ)は家臣の謀反や豊後国の大友氏、土佐国の一条兼定の侵攻を受け、国内では宇都宮豊綱とも対立し、領内はまさに危機的状態にあった。

来島水軍・来島村上氏は戦国期に河野氏に臣従し、重臣となって同じ重臣の平岡房実と遠征を繰り返し鎮圧に及んだが、もはや河野通宣(こうのみちのぶ)に伊予国内を独力でまとめる力もなかった。

河野通宣は、以前より姻戚関係であった中国地方の雄・毛利元就と従属的同盟を結び、小早川隆景(こばやかわたかかげ)を中心とする毛利軍の支援によって、土佐一条氏や伊予宇都宮氏を撃退している。

宇都宮氏・宇都宮豊綱は西園寺氏との戦いでは、西園寺実充の子公高を討ち取り、その後、姻戚関係にあった一条氏と結んで河野氏との対立を深めた。

その後宇都宮豊綱は、千五百六十八年(永禄十一年)に毛利氏の援軍を受けた河野氏との鳥坂峠の合戦にて大敗を喫し、毛利方に捕らえられ、千五百八十五年(天正十三)に備後で病没している。

一方の伊予西園寺氏・西園寺公広は、千五百八十四年(天正十二年)土佐国公家大名・一条氏を下克上で倒して急速に勢力を拡大して来た長宗我部元親の猛攻を受けて降伏する。

長宗我部元親の臣従した西園寺公広だったが、翌千五百八十五年(天正十三年)四国平定を図る豊臣秀吉配下の小早川隆景に攻められ降伏し、新領主の小早川隆景に属し居城の黒瀬城のみを残される。

その後小早川隆景の配下として九州の役に従軍するなどしたが、千五百八十七年(天正十五年)新たに宇和の領主(大州七万石)となった豊臣秀吉の子飼いの家臣・戸田勝隆(とだかつたか)に戸田邸で謀殺されている。

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by mmcjiyodan | 2010-06-30 00:37 | Comments(0)  

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